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Civilizations and Impressions

文明と価値7(価値形成における外的な要因と内的な要因)

2022-12-18 09:18:23 | 論文

 しかし、このいわばトインビー的な価値形成論にはどことなく他律的な感じが多くあるかもしれない。それ以外にもその文明自体が持つ、自律的な価値形成論もあることだろう。その民族が持つエネルギーの状態と関係しながら形成される価値のことである。こうした価値も時間と共に変化していくものである。またこのような価値を構成するものの中には、宗教、芸術、科学といったものがあり、これらの根底には「共通した生命現象」があると直観的に捉えていた人がシュペングラーだった。

 

 シュペングラーはそれぞれの専門家から見たら奇妙なことを「西洋の没落」の中では書き連ねていたともいえる※1。しかし、今風にいえば AIでいうところのデイープ・ラーニング的方法をまさに逆さにしたような形で宗教、芸術、科学といったあらゆるものの中に存在する「共通する生命現象」を論じていたともいえるわけである。それを形態学と名づけ、ヨーロッパ文明最後の学といっていた。

 

※1 専門家から見たら奇妙なことを「西洋の没落」の中で書き連ねていた

 シュペングラーの文化、芸術、数学、歴史に対する評価は、それぞれの分野を必ずしも専門家的立場から評価しているわけではないので、バイアスがかかったものになっている感じが強いかと思われる。そのバイアスの要素こそ、形態学的な解釈のエッセンスといっていい。しかしそれをひとつひとつ確認する作業は非西洋人にはかなり困難なことかもしれない。このことが自律的な価値形成について説明する際に、シュペングラーが提示した事例を使うのは効率的でないことが予想される理由である。

 

 価値に対する外的な要因となりうるトインビーの理論(挑戦と応戦)と内的な要因となりうるシュペングラーの理論(共通する生命現象)を取り上げてみた。

 今更なぜ、トインビー、シュペングラーの文明論かという意見はおそらく多く出てくることだろう。むしろ最近においては文明論で大きな影響を与え続けてきたのはハンチントンの著作「文明の衝突」であった。文明の衝突は現実の世界の状況をうまく説明※してきたのだが、それ自体が価値、思想の燃料となってしまった面もあったように思われる。

 

※現実の世界の状況をうまく説明。

 イスラム文明における人口の増大、アジアにおける中国文明の経済的発展がしだいに西洋文明との緊張をもたらすようになるということ。これに対して、ハンチントンはヨーロッパとアメリカの緊密な連携こそが西洋文明の覇権の持続に不可欠になると考えていた。そして2021年の段階においてはイスラム文明における人口の増大も落ち着いてくるだろうともみていた。一方で中国文明による緊張はいまだに高まっている状況である。

 

 トインビーやシュペングラーが再評価される必要があると考えるのには理由がある。この二人が第一次世界大戦、第二次世界大戦という大破壊の中から生まれてきたということが大きい。世界は再び同じような破壊の危機水域に立ち入ろうとしているが、緊張状態の中、この二人が何を感じていたかあまり理解されていないように思われるからだ。没落論者として見られる傾向が当時は強かったかもしれない。しかし現代においては、この二人を未来論者として再解釈してみる方がよいのではないか。未来を規定する、決定づける価値がどのように形成されるのか。そして二つのスタイルが提供された。そしてトインビーの外向的な理論とシュペングラーの内向的な理論はそれぞれ違った展開※をたどっていった。こうした両者の直観が戦時における過度な緊張状態の中、研ぎ澄まされた感性※によって到達したイメージであることもまた無視できない側面だろう。

 

 ※違う展開

 トインビーにとっては、価値形成について、文明に対する外部からの影響力の方がどちらかといえば大きな要因としてあったといっていいだろう。文明を起動する力として挑戦(私はそれを外部力と環境力に分けているが)があり、これが自己決定能力に影響を与えて応戦するとした。創造的指導者が現れ、それを大衆が模倣するようになるが、やがて創造的指導者はしだいに劣化し支配的になっていき、そうした過程で帝国や戦闘団体等が生じてくるとした。それに対してシュペングラーは農村から自然に生じてきた文化が都市の発展と共に文明となっていき、人間は文化を失い、根無し草となり、帝国化していき、ついには没落するとした。

 

 晩年には、トインビーは「世界宗教の重要性」について触れるようになっていった。一方でシュペングラーはその晩年、ドイツの国家、社会がどうあるべきか考えるようになっていった。その結果、プロイセン社会主義というものを考えるようになった。それはある意味、内向的な思考の産物ともいえる。ドイツ流の効率的な官僚制を活かした社会主義ということで、2020年代における、現在の中国をどこか思わせるようなところがあるかもしれない。シュペングラーは市場や資本主義が国家を発展させるのではなく、どちらかといえば社会主義と科学的な官僚主義が国家を発展させると考えていたのである。

 

※緊張状態の中で磨かれた感性

 勝つか負けるか、どちらの価値が勝利するかわからない戦時下では出口が分からなかった。このため歴史、文化の著作には、深い思索に支えられた作品が多く生まれたようだ。第二次世界大戦の頃に、ブローデルは「地中海」を書いていたし、サルトルは「存在と無」を書いていた。いずれもドイツに占領されていたフランス人だというところも興味深い点である。またこのことはGHQ統治下前後の日本の作家にもいえることだろう。

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