2 東南アジア
東南アジアの形成は2~3世紀におけるこの地域におけるインド文明の浸透から始まった。インドの南部、サターヴァーハナ朝との交易を介して、インドシナ半島沿岸部に港市国家が成立した。マレー半島の港市や扶南やチャンパーといったものがそれである。インドの進んだ物品は現地有力者に重宝され、勢力の誇示に使われ、港市社会形成に役立った。7~8世紀になるとインドの文化、ヒンズー教や仏教がパッラバ朝やチョーラー朝を介して入ってくるようになった。
2世紀における交易はローマ帝国と漢を結ぶ、7,8世紀はイスラム文明と唐を結ぶ交易の始まりであり、その中で東南アジアは物産の集散、中継地として繁栄してきた。またそうした航路帯の沿線ではたびたび文化が移り変わってきた。インドネシアのバリ島では、その島だけヒンズー文化が残ってきた、ジャワ島の真ん中には大乗仏教によるボロブドウールが残ってきたが、そうしたものは過去に繁栄した文化の名残であり、現代インドネシアの全域はイスラム教の国となっている。それはインドネシアの島々がシュリーヴィジャといった仏教王国、マジャパヒトといったヒンズー王国、その後、マタラム等といったイスラム王国によって支配されてきた経緯による。
マレー半島においては港市国家によってそれぞれ宗教は異なっていたかもしれないが、15世紀中頃、マラカという港市が中心となり、東南アジア群島部一帯にイスラム教が広がる契機となった。マラッカ海峡の航路が最初に開かれ、マレー半島は長らくインド、中国間の交易の中継地点であったが、さらに南に位置するスンダ海峡の航路はインド、中国間をより直通で行くための、あるいは海賊を避けるための航路となった。
東南アジアから中国にかけては扶南(1~3世紀)やチャンパー(2~17世紀)が古くからの港市として栄えたが、それから後には内陸部にクメール帝国が建設され長く繁栄した。アンコールワット、アンコールトムが有名であるが、周辺一帯には巨大な貯水池が建設され、灌漑がなされ稲作が行われた。クメール帝国は大乗仏教とヒンズー教を中心にしてアンコール朝の栄華を作り出した。
東南アジアの内陸側の土地は熱帯であり、大河川が多く、初期の頃は開拓が難しかった。港市国家の発展にともない、港周辺地域での耕作が進むにつれ、クメール帝国(カンボジア)のように農業国家として港市の後背地に王国を築き、勢力をなした国家も現れた。
また一方でベトナムのように中国文明の影響を受けて南進してきた国もあった。紅河デルタでの灌漑、科挙による官僚制度、中国による支配を受けていた期間も長かったが、ベトナムはそれをはね返してきた。じわじわと南進し、チャンパーと対立し、これを滅ぼしたが、北と南に長くのびた国となり、二つに分かれて対立するようになった(20世紀にも同じことが繰り返されたが)。
航海民族と内陸民族の対立は東南アジアではしばしば見られたが、先のチャンパーはベトナムに侵攻されても、他の港市国家に一時的に拠点を移すことができるため、すぐには滅びず、17世紀まで生き延びてきた。ベトナムは南進を続け、陳朝の時代には元帝国の侵攻を撃退し、黎朝、阮朝と続いた。しかし13世紀における元の東南アジアへの侵攻は北から南へ大規模な民族移動をもたらし、ビルマのパガン朝が滅び、タウングー朝が生まれ、タイにはスコータイ朝、その後アユタヤ朝が生まれ、カンボジア王国(クメール帝国)はビルマ、タイ、ベトナムの三方から侵食されるようになっていった。その後、この三国は互いに侵入を繰り返した。ビルマ、タイはクメール帝国とは異なり、上座仏教を国教とした。タイではアユタヤ朝の後、ラタナコーシン朝が成立し、ビルマではタウングー王朝の後、コンバウン朝が成立したが、やがてビルマはイギリスによって、ベトナムとカンボジアはフランスによってそれぞれ支配を受けるようになり、タイは緩衝地帯として独立国としてかろうじて生き残った。
少し先まで来てしまったが、群島部に戻ろう。ムラカをイスラム勢力が拠点とし、東南アジア群島部にイスラム教が広まっていったが、次はそこにポルトガルが入ってきた(1511年)。ポルトガルは交易航路を維持しようとしたが、オランダに敗れ(1641年)、次に入ってきたオランダの時代には、香料貿易の価値が下がっていったこともあり、また清が広東を開港(1684年)したため、東南アジアの中継貿易地としての役割が低下し、東南アジアは商業の時代から開発の時代へと変わっていった。このためオランダはジャワを交易地、点としてでなく面、領域的に支配するようになり、コメやコーヒーを生産するようになっていった。一方フィリッピンは中国とメキシコの中継地としてスペインが支配していたが、ジャワに少し遅れてこちらも商業の時代から開発の時代へ移っていった。商業時代にオランダに敗北したイギリスはインドに新拠点を築き、綿織物やアヘンといった商品を掌握し、清との交易をおこなった。またマレー半島を交易航路として支配していき、シンガポールを建設し、アヘン戦争で勝った後には香港を建設した。
東南アジアを融合型準文明とするのは、単に浸透されただけでなく、四方からの影響が融合していったからだが、インド文明、中国文明、イスラム文明、ヨーロッパ文明、こうした四文明の全てが影響力を融合してきた、世界で最も稀有な地域といっていいかもしれない。またここも東欧と同じく多民族、多言語、多宗教であったが、「上部」文明が介入してくるケースは東欧よりも少なかったかと思われる。それはインド文明、中国文明がローカル型文明であったためであろう。イスラム文明、ヨーロッパ文明も関係したが、文明の本拠地が遠方にあったためか、東南アジアには深くは介入できない時代が続いたが、交通機関の発達もあり、ヨーロッパ文明は19世紀からは本格的に介入するようになっていったが、それは開発の時代と重なることとなった。
東南アジアは当初、自然環境のため内陸では開発が難しく、港市国家として発展し、インド文明の影響を受けながら航海民族が国や文化を形成したが、しだいに内陸開発と関係してクメール帝国(カンボジア)が繁栄するようになっていった。東南アジア群島部には北から中国文明、西からはインド文明(シュリービジャヤ、マジャパヒト)、後にはイスラム文明、ヨーロッパ文明が到来し、活発に商業活動が行われ、やがて開発も行われるようになった。13世紀の元による侵攻以降はベトナム、タイ、ビルマといった諸民族もインドシナ半島を南下しはじめ内陸国家が成立し、クメール帝国(カンボジア)を浸食し、その後は三者で対立するようになった。ビルマはイギリス、ベトナムとカンボジアはフランスの植民地となり、タイが緩衝国家となって対立は抑制された。
第一次世界大戦後、東南アジアにおいて独立運動が起こってきたが、第二次世界大戦の時に東南アジアはほぼ全域を日本によって占領されることとなった。日本の敗北後、旧宗主国は植民地に戻ろうとしたが、それぞれ独立運動によって阻止された。旧フランス領ではベトナム戦争、カンボジア内戦が生じた。それに対し、旧イギリス領は先に書いたように過激な勢力を制圧して、穏健派で憲法をつくらせ財産権を守らせたので比較的安定的に独立がなされた。イギリスとフランスの中間型がオランダからのインドネシアの独立だろう。
独立はしたが、これらの地域でも南米と似たように軍部が重要な働きをすることがいまだに見られる。タイの軍政などがそうだ。過激なポピュリズムによって民主主義が動く場合、軍がしばらく政権を持って、落ち着いたら民主主義に戻すというやり方であるが、それを何回か繰り返していくうちに民主主義が定着(インドネシアやフィリッピン)したケースもあった。しかし相変わらず同じようなことを続けているところもある(タイ、ミヤンマー)。
東南アジアは四文明と深い関わりがあったように、その立地によって、経済発展の可能性があるのだが、シンガポールというセンターを中心にASEANを結成し、緩やかな連帯を続けてきた。この形はなかなかユニークな地域の組織化といえるであろう。シンガポールという「小国」が頭脳、先頭を行くハブとして存在し、異なる政体の国々が参加し、それぞれの国が個別に安全保障政策を保っている。でもそこにはある程度の共通点がある。それは「財産権は保障されなければならない」ということであろう。軍の民主主義への介入もそういう意味合いで許されているともいえる。中国と接近しているようなところがあってもそういう線引きはあるようだ。東南アジアは複雑な融合を①小さな中心、②政体の相違を認める緩やかな連帯、③財産権の保障という形で行っているのではないか。これは準文明諸国による連帯を強めていくうえでも参考となる考え方だと思われる。
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