golden days

nonsense sentence contents and fictional experiments

230728

2023-07-28 | Weblog
今この時の状況を何に還元できるか

夜中になっても続くheatwave
寝られなくて飲む酒と
飲むから吹き出す汗によって
さらに増す不快感
頭に流れるit's so hard to be a saint in the city
不快感から開放感へと価値観を変える
即興の物語の捏造
思考と想像力の飛躍
ここからどんな物語が始まるかという楽しみしかない

法律や経済という抽象的な概念は不要
今はどうこの状況に対峙するかということ
生存との闘いしかなく
それをどう物語へ作り上げるかという
生の楽しみしかない

230721 存在の消去について

2023-07-21 | Weblog
死は一つのイベントである。ある存在としての生が終わりを遂げる。存在としてこの世に生まれ落ちて死ぬまでの間に、どれだけの人と関わり合ってきたのだろうかと考えると、ただただ市井に生きてきただけの自分であっても、そこそこの数の人の顔が頭に浮かぶ。

死というものに関して、その周りに対する、関係してきた人たちに対する影響を考えた時に、その影響を最小限にする方法はないかと考えた時期があった。それは、20代の頃に身近な親族の死から思いついたことだったけれど、50代の今に思うこととして、再考したい。

情報、特に個人情報の消去から始まる。銀行口座や生命保険などのリアルな情報から、ネット上のサイトログインに関するIDやPWなど、一体幾つのサイトにアクセスして消去するか、という行程があり、考えただけでも辟易してくる。

物理的にしばらく身を隠す。メールやショートメール、SNSでのつながりを断つことを宣言する。年賀状の虚礼廃止宣言にも似たようなものをすればよいのではないか。仕事の上では粗相なく、プロジェクトの良い区切り、かつ身体の調子が良くないなどの理由をつけたりなんかして。

そういう日々のネットワークから仮に離れられるだけでも、存在の消去への道は開けてくる。物理的な死が第一の死だとするならば、人々の記憶から消え去った時が第二の死である、という定義がある。誰の言葉か忘れたけれど。

自分の爪痕、軌跡の消去こそが一番難しい。作品を作品として残すつもりで活動してきたわけでもないけれど、必然的に残ってしまうのが建築空間というもの。特定のクライアントしかり、不特定多数の人々が利用する空間だったり、性質は違えどその空間を提案して施工にも携わるという職業柄、その自分の軌跡を消すということはなかなか難しい。良くも悪くも残ってしまうというのが空間設計の職能であり、諸苦悩でもある。

願わくば、荒波立てず穏やかに、人生において関わった人々の記憶もさらりとかわしながら、この世からフェードアウトしたい。なるべく環境負荷をかけぬかのごとく、自己の存在を荒波立てぬように消去したい。たとえそれが自己顕示欲と表裏一体な思いだとしても。

ちなみに自殺願望があるわけではなく、与えられた生は全うするつもりで生きている。「存在の消去」というテーマは、生の楽しみに満たされているからこそ記述可能なものであり、そもそも「存在を消去したい」と書いている文章をブログに残すこと自体、大きな矛盾を孕んでいることが一つの諧謔であることを楽しんでいる。

230606 雑記

2023-06-06 | Weblog
物事をオーガナイズする力というのは、経験を経た50代半ばにして得てきているとは思う。それを判断力として短時間で下せ、如才なく周りに流す、生きるための能力、みたいな。
日々、それをこなしていく中にも、根本的にそれがクリエイティブであることの姿勢をどれだけ保てるか、クリエイティブな要素をどれだけ発見出来るか、という視点は持って生きていきたいと思う、今日この頃。

AIみたいなものは、ビッグデータしかり、ジェネラルなコンテクストを拾い上げていくのには優秀であるだろうことには、異論はない。
一方で、細やかなディテールを含めたコンテストに対しては、データが蓄積していけばそれをも拾って表現していくのだろうけれど、現時点ではまだまだな気がする。
表現含めて、人間の発想力で対峙していくしかない。

毎日のルーティンの中で気づいたディテールが面白くて、それを日々報告し合い、それでもいろんなハプニングが仕事でも毎日起きてヤキモキし、定期的なイベントに参加した後に酒を呑みながら友と親交を深める。これ以上の幸せはないのではないかと思えるくらい。

230519 Paul Auster「冬の日誌 Winter Journal」(再読了)

2023-05-19 | Weblog
母、姉への伯父の報告書を作ってみて、今回オースターの「冬の日誌」を読みながら現地へ行ったことが、文章として報告書に反映されているのかなと思った。骨子・主旨は簡潔に、でも読み手の情感とリアリティを想像しながら描くということ。

そういう意味では、オースターの、何十年前に起きたことのディテールまで描けるというのは、シンプルにすごい才能だと思う。記憶の構成の仕方がそもそも違うのか、脚色することの巧さなのか。虚構だったとしても、それにどのようにリアリティを与えるかという才能なのかとも思う。

でも、小説、詩、俳句、短歌、文章、音楽の歌詞もそうだけれど、言葉が刺さるというのは果たしてリアリティなのだろうか。リアルな自分に投影されたから、感動するのだろうか、記憶に残るのだろうか。感じて心が動いたから「感動」するのだろうけれど、それを記憶にまで留めておくためには、一体何が必要なのだろうか。

自己の発掘、オリジナリティは自分の足元にしかないことは明白だけれど、それを言葉として具現化することの意味と重要性、それがさざなみのように波及していくこと。それは水面に落ちた一滴が、小さな波紋を描くくらいのことでしかないだろうけれど、一滴を落とすことの大切さを思う。

230509

2023-05-09 | Weblog
音質に関するこだわりよりも楽曲を再現する演奏可能性の方に興味があるというのは
車そのものへのこだわりよりも運転に興味があることに似ている

230418

2023-04-18 | Weblog
物事を見る時の焦点をぼかして、解像度を落として、骨格や構造を見ることが、抽象度を上げることにつながる。
掃除する時にメガネをかけないという。

ディテールは時にノイズである時もある。

221010 今この時、から、どんな言葉を紡ぎ出せるだろうか

2022-10-10 | Weblog
姉の3回忌。姉の娘2人が主導してささやかながらも、今日その節目を終えた。
2年という早い時間の流れ、未だに夢にさえも現れる姉の存在感、病床での最期の姉とのコミュニケーション、普段ギターを弾いていても思い出す姉との音楽についての対話、静かな時間。

存在としてこの世からいなくなった人との対話。祖父祖母、父、叔父叔母、妻、姉と、これまで多くの人を見送ってきたし、対話は続く。
その結果として、自分は今をどう生きているか、そしてそれを見送られた人達がどう見守ってくれているだろうか、などと思う時間が、見送る経験を経るにつれ多くなってくる。

生きていてくれたら、また会いたい、話したい、という思いだけが自分の中に降り積もっていく。
それを背負いながら日々を過ごすのが、生きていくということの一側面であるのだなと思う。

221006 真の静寂

2022-10-06 | Weblog
「漆黒の闇」はつくろうと思えばつくれるかもしれないけれど、「真の静寂」はなかなかつくれない。たとえ全く音のないタイトな防音室に入ったとしても、自分自身の身体からの音まで消すのは難しいだろう。

小さい頃から音楽は常に身近にあったし、様々なジャンルの音楽を聴いてきて、まさに「No music, no life」だと思って生きてきた。歴史的にみても言語より音楽が先行しているのだと思っていたし、むしろ、言語も音楽の一部くらいな認識。

けれどある時にふと、音楽の全くない環境に身を置いてみたらどうなるかと思い、仕事もそれ以外の時も音楽をシャットアウトしてみた。そうしたら、またいろんなことが見えてきた(inner sightだけど)。

都市部に居れば、室内の冷蔵庫や家電の音、空調室外機の音、ビル風の音、車や緊急車両の音、通りの話し声やご近所の生活音など、音に関して言えば事欠かない。
一方、自然の多い地域に居たとしても、鳥の声、虫の声、木々の揺れる音、遠くの飛行機音など、真の静寂からは程遠い。

目を閉じることは出来ても、耳を閉じることは出来ない。それでも、そもそも人は聞きたいものしか聞こえてないし、可聴域というのも年齢を経て変化していく。意識をどこにフォーカスするかによって、何が聞こえるかも変わってくるのは明白だ。

日常的な情報というのも、自分にとって何が本当に必要なものか、という視点を持ったならば、殆どの情報、9割8分は雑音としか思えなくなる。雑音を避けて、意識を集中させた時に「真の静寂」が得られるのかもしれないし、心の中にしか「真の静寂」はありえないのかもしれない。

221001 直感的に動く

2022-10-01 | Weblog
金曜日夜、Jazz bar東京倶楽部@目黒、夕食後にふと、やってるかなと初めて観に入った箱だったけれど、ホントに久しぶりの生ライブ演奏を楽しんだ。馴染みのjazzスタンダードからブルース、最後はギタリストのオリジナルまで、グルーブ感、スイング感ありの心地良い時間。最後は殆ど観客は自分たちだけ、という場末感も良かった。

土曜日、コレも即興的に朝10時に当日券を予約した舞台「住所まちがい」@世田谷パブリックシアターの観劇。内容的にはもっとコメディかと思いきや、ちょっと哲学寄りの不条理劇か?だったけれど、やはり久しぶりの生舞台はとても良かった。観終わった後の理解不能な謎解きモヤモヤ感も、結構好き。

思えば、この2つのライブ感は、あらためてコロナ以降久しぶりな感覚。直感で行動するというのは、新たな感覚を醸成する。どこで飲もうかと、初めて入る飲み屋を選ぶときの感覚にも似ている、当たり外れ含めて。

仕事では広尾の現場も納め、大田区も高崎も竣工検査に向けて段取りした週末だったのもあり、いつもより開放的になっていたのだろうとは思う。でも、やはり直感的に動くことは良い。自分の思っていた流れさえも掻き乱す即興的な感じ。その結果、新たな感覚にインスパイアされる、という流れはとても良い。

舞台観劇後も、棚田の収穫祭出欠の段取りをし、渋谷石花会の11月12月の予定を決め会場予約し、知人の舞台の予約を取り、と「先へ投げる」まさに「pro-jection」の流れへと。そうしている時には、期待感、高揚感、仮に何かトラブルがあったとしても乗り越えられるであろうという安定感までも得られる。

コロナ以降、押し込められてきた文化、芸術、音楽、アート、全ての創造的行為を、もうシンプルに「解放」して良いんじゃねーの?な気分。主催者側はいろいろと心配る必要な措置はあるだろうけど。

要は「自分の感覚を拡げる」ということ。コロナ以前からも自分なりにそれが大事と思って生きてきたけれど、益々その重要性を感じている。そして、メキシコのコロナビールをあけてその「解放」を味わいたい。(もう、普通に飲んでるけど)

210624 たたかう

2021-06-24 | Weblog
母の父、100歳まであと3年でこの世を去った私の祖父との話。

晩年会いに行った時に、祖父が「仕事はどうだ、たたかっているか?」と聞いてきた。
「まぁ、それなりに頑張っているよ」とその時は答えたけれど、
今から思えば「戦っているか?」よりも「闘っているか?」の方だったのだろうと思う。
その場の雰囲気的に、文脈的に。

「戦う」は相手がいて勝ち負けを競う場合、
「闘う」は困難や障害など目に見えないものに立ち向かう場合、
と漢和辞典にある。
そう、祖父が言っていたのも後者な感じ、「自己と闘う」的な。

そのやりとりを思い出して、究極的には「自己と闘う」ということは、
死するまで続くことだと祖父から教わったと思える。
遺伝子もさることながら、精神性においても引き継いだと。

それにしても「自己と闘い」続けることは、日常的には結構難しい。
そんなにストイックにはやってらんねーわと、疲れる時もある。

だけどこの歳にして、半ば諦めていたようなことにチャレンジできる可能性が一瞬でも見えた時に、
気持ちの思うままに一歩踏み出してみてもいいかなと思えた時も、
「自己と闘う」場面なのかなと思った次第。
そこから、新しい世界が広がる感覚を得るかもしれないという期待と好奇心のもと。

今宵はなぜか、爺さんありがとう、な気分。
何がきっかけになったかは、知らんけどw

210511 手と記憶

2021-05-11 | Weblog
自分が手を動かしたことの現象やその結果から
世界とか人間とかを類推する

やはり、記憶というものは興味深い
今まで自分に関わりのあった人のことをふと思い出す
何故、今、この人のことを思い出したのだろうと
日々、移ろいゆく想念の中においても、この人のことを思い出す
もしくは思い出してしまったという不思議
その自分の中での現象とは何ぞやという問いは続く

210503 意味とは何か

2021-05-03 | Weblog
「数学とか英語なんて、勉強なんかしても、何も意味ないじゃん!」
もはや本人が覚えているかどうかすら怪しいけれど、ムスメが中学生最初の頃に放った言葉である。その時に自分は親として「意味なんてものは、自分で作り上げていくものなんだよ」と言った気がする。コレは今も、学問とか知性とかって何だろうと思っているから、当時、ちゃんとムスメには言ったと思う。(知らんけどw)

考えてみれば、当時のムスメの主張はある意味正しくて、ちょっと引いて考えてみると、モノゴトの意味なんて、本人の意思次第という所がある。生きていく上で、仕事の上で、自分のやっていることがなんの意味があるのか、と思うこと、場面みたいなものは、少なからずある。とかく、人は自分のやっていることに疑問を呈した時には、その意味を深く考えがちだろうとも思う。

自分の関わっていることや、やらねばならないこと、やるべきことをあらためて見出した時に、それに「何の意味があるのか」と問う必要はない。「意味など無い」むしろ「やりたいからやる!」という地点、モチベーションから出発することの意義の方が、とても大切だと思う次第。

210226 リアル(real)とは何か

2021-02-26 | Weblog
・空間を創る時に、設計というヴァーチャルな段階から、現場にてモノがモノとして納まっていくプロセス、様々な人が関わってその調整をしながら仕上げていくという過程に携わることにおいて、リアルを感じる。

・食事をつくるということは、食材との闘い、タイミング。身体へと還元される栄養素も考慮しながら味と食感を想定して作り、そして食べる時に最もリアルになる。(お酒もね♪)

・音を奏でる時のチューニング、そして楽器からのリアクション、良い音を出せた時、そのメロディを身体という楽器を使って、パフォーマンスとして出せた時、リアルを思う。

・身体に意識を集中してストレッチをする。股関節を中心に身体の動きを柔らかくし、筋肉・筋を伸ばし、気の流れを確保し、身体が悦び始めた時にリアルになる。

・Face to faceのコミュニケーションは、言うまでもなくリアル。むしろ物理的に触れ合うことの難しい昨今の状況であるが故に、オンラインではない面と向かったコミュニケーションのリアルさ、重要さが際立ってくる。

・無意識にしていた自分の普段の行為をあらためて意識した時には、リアル感が増す。

・自分がこの世に存在し、生きている環境に、どれだけ呼応しているかという意識(高い系w)が、リアルを醸造するといっても良いのではと思う次第。