母、姉への伯父の報告書を作ってみて、今回オースターの「冬の日誌」を読みながら現地へ行ったことが、文章として報告書に反映されているのかなと思った。骨子・主旨は簡潔に、でも読み手の情感とリアリティを想像しながら描くということ。
そういう意味では、オースターの、何十年前に起きたことのディテールまで描けるというのは、シンプルにすごい才能だと思う。記憶の構成の仕方がそもそも違うのか、脚色することの巧さなのか。虚構だったとしても、それにどのようにリアリティを与えるかという才能なのかとも思う。
でも、小説、詩、俳句、短歌、文章、音楽の歌詞もそうだけれど、言葉が刺さるというのは果たしてリアリティなのだろうか。リアルな自分に投影されたから、感動するのだろうか、記憶に残るのだろうか。感じて心が動いたから「感動」するのだろうけれど、それを記憶にまで留めておくためには、一体何が必要なのだろうか。
自己の発掘、オリジナリティは自分の足元にしかないことは明白だけれど、それを言葉として具現化することの意味と重要性、それがさざなみのように波及していくこと。それは水面に落ちた一滴が、小さな波紋を描くくらいのことでしかないだろうけれど、一滴を落とすことの大切さを思う。
そういう意味では、オースターの、何十年前に起きたことのディテールまで描けるというのは、シンプルにすごい才能だと思う。記憶の構成の仕方がそもそも違うのか、脚色することの巧さなのか。虚構だったとしても、それにどのようにリアリティを与えるかという才能なのかとも思う。
でも、小説、詩、俳句、短歌、文章、音楽の歌詞もそうだけれど、言葉が刺さるというのは果たしてリアリティなのだろうか。リアルな自分に投影されたから、感動するのだろうか、記憶に残るのだろうか。感じて心が動いたから「感動」するのだろうけれど、それを記憶にまで留めておくためには、一体何が必要なのだろうか。
自己の発掘、オリジナリティは自分の足元にしかないことは明白だけれど、それを言葉として具現化することの意味と重要性、それがさざなみのように波及していくこと。それは水面に落ちた一滴が、小さな波紋を描くくらいのことでしかないだろうけれど、一滴を落とすことの大切さを思う。
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