死は一つのイベントである。ある存在としての生が終わりを遂げる。存在としてこの世に生まれ落ちて死ぬまでの間に、どれだけの人と関わり合ってきたのだろうかと考えると、ただただ市井に生きてきただけの自分であっても、そこそこの数の人の顔が頭に浮かぶ。
死というものに関して、その周りに対する、関係してきた人たちに対する影響を考えた時に、その影響を最小限にする方法はないかと考えた時期があった。それは、20代の頃に身近な親族の死から思いついたことだったけれど、50代の今に思うこととして、再考したい。
情報、特に個人情報の消去から始まる。銀行口座や生命保険などのリアルな情報から、ネット上のサイトログインに関するIDやPWなど、一体幾つのサイトにアクセスして消去するか、という行程があり、考えただけでも辟易してくる。
物理的にしばらく身を隠す。メールやショートメール、SNSでのつながりを断つことを宣言する。年賀状の虚礼廃止宣言にも似たようなものをすればよいのではないか。仕事の上では粗相なく、プロジェクトの良い区切り、かつ身体の調子が良くないなどの理由をつけたりなんかして。
そういう日々のネットワークから仮に離れられるだけでも、存在の消去への道は開けてくる。物理的な死が第一の死だとするならば、人々の記憶から消え去った時が第二の死である、という定義がある。誰の言葉か忘れたけれど。
自分の爪痕、軌跡の消去こそが一番難しい。作品を作品として残すつもりで活動してきたわけでもないけれど、必然的に残ってしまうのが建築空間というもの。特定のクライアントしかり、不特定多数の人々が利用する空間だったり、性質は違えどその空間を提案して施工にも携わるという職業柄、その自分の軌跡を消すということはなかなか難しい。良くも悪くも残ってしまうというのが空間設計の職能であり、諸苦悩でもある。
願わくば、荒波立てず穏やかに、人生において関わった人々の記憶もさらりとかわしながら、この世からフェードアウトしたい。なるべく環境負荷をかけぬかのごとく、自己の存在を荒波立てぬように消去したい。たとえそれが自己顕示欲と表裏一体な思いだとしても。
ちなみに自殺願望があるわけではなく、与えられた生は全うするつもりで生きている。「存在の消去」というテーマは、生の楽しみに満たされているからこそ記述可能なものであり、そもそも「存在を消去したい」と書いている文章をブログに残すこと自体、大きな矛盾を孕んでいることが一つの諧謔であることを楽しんでいる。
死というものに関して、その周りに対する、関係してきた人たちに対する影響を考えた時に、その影響を最小限にする方法はないかと考えた時期があった。それは、20代の頃に身近な親族の死から思いついたことだったけれど、50代の今に思うこととして、再考したい。
情報、特に個人情報の消去から始まる。銀行口座や生命保険などのリアルな情報から、ネット上のサイトログインに関するIDやPWなど、一体幾つのサイトにアクセスして消去するか、という行程があり、考えただけでも辟易してくる。
物理的にしばらく身を隠す。メールやショートメール、SNSでのつながりを断つことを宣言する。年賀状の虚礼廃止宣言にも似たようなものをすればよいのではないか。仕事の上では粗相なく、プロジェクトの良い区切り、かつ身体の調子が良くないなどの理由をつけたりなんかして。
そういう日々のネットワークから仮に離れられるだけでも、存在の消去への道は開けてくる。物理的な死が第一の死だとするならば、人々の記憶から消え去った時が第二の死である、という定義がある。誰の言葉か忘れたけれど。
自分の爪痕、軌跡の消去こそが一番難しい。作品を作品として残すつもりで活動してきたわけでもないけれど、必然的に残ってしまうのが建築空間というもの。特定のクライアントしかり、不特定多数の人々が利用する空間だったり、性質は違えどその空間を提案して施工にも携わるという職業柄、その自分の軌跡を消すということはなかなか難しい。良くも悪くも残ってしまうというのが空間設計の職能であり、諸苦悩でもある。
願わくば、荒波立てず穏やかに、人生において関わった人々の記憶もさらりとかわしながら、この世からフェードアウトしたい。なるべく環境負荷をかけぬかのごとく、自己の存在を荒波立てぬように消去したい。たとえそれが自己顕示欲と表裏一体な思いだとしても。
ちなみに自殺願望があるわけではなく、与えられた生は全うするつもりで生きている。「存在の消去」というテーマは、生の楽しみに満たされているからこそ記述可能なものであり、そもそも「存在を消去したい」と書いている文章をブログに残すこと自体、大きな矛盾を孕んでいることが一つの諧謔であることを楽しんでいる。
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