「自信:自分の能力や価値を確信すること。自分の正しさを信じて疑わないこと。」(広辞苑第4版/岩波書店)
「自分への信頼」のことを「自信」というのかなと思って辞書を引いてみたが、なんとなく違っていた。「確信」と来られたらちょっと引いてしまう・・・(笑)。
マス・メディアなどで、いわゆるニートと呼ばれる無職・引きこもりの若者が社会適応出来ない理由として「自信がない」という言い方をされていたのを聞いて、彼らは本当に自信がないのだろうか?と思った。そういう部分を理由に挙げるというのは、単純に挙げやすいからなのではないか。
彼らの言い分を聞いていると、「社会に適応出来ない」とか「したいこととやれることとのギャップ」だとかは、ごく表層の理由であって、単純に「生きること」を実行出来ないというだけのような気がしてくる。「生きること」とは、日々の細かな実行の積み重ねである。彼らはリアルに実行を積み上げて行くという経験をしないで、頭の中だけで考えているだけなのではないだろうか。
思考を実践へと転換するきっかけは、その辺にゴロゴロある。
「自分への信頼」のことを「自信」というのかなと思って辞書を引いてみたが、なんとなく違っていた。「確信」と来られたらちょっと引いてしまう・・・(笑)。
マス・メディアなどで、いわゆるニートと呼ばれる無職・引きこもりの若者が社会適応出来ない理由として「自信がない」という言い方をされていたのを聞いて、彼らは本当に自信がないのだろうか?と思った。そういう部分を理由に挙げるというのは、単純に挙げやすいからなのではないか。
彼らの言い分を聞いていると、「社会に適応出来ない」とか「したいこととやれることとのギャップ」だとかは、ごく表層の理由であって、単純に「生きること」を実行出来ないというだけのような気がしてくる。「生きること」とは、日々の細かな実行の積み重ねである。彼らはリアルに実行を積み上げて行くという経験をしないで、頭の中だけで考えているだけなのではないだろうか。
思考を実践へと転換するきっかけは、その辺にゴロゴロある。
これらはPC(ポリティカル・コレクト)の一環なの?
もし仮にそれらが「ポリティカル・コレクトネス」の名の下に言い換えられているのだとしたら、「正しさ(コレクトネス)」って何なんでしょうかね、と思います。
アメリカの持つ「正しさ」は、キリスト教の「倫理」だろうけど、じゃー日本のそういったベースは何なの?みたいな。。。