golden days

nonsense sentence contents and fictional experiments

210224 かもしれない

2021-02-24 | Weblog
まるで蝶が羽ばたくかのごとく
空間を自由に行き来することが出来るかもしれない
でも実はもう既に羽ばたいているのかもしれない

自由ではないかもしれないけれど
日々の喧騒の中で楽しくありたいと思いながら
時に苦しくもがいているだけなのかもしれないけれど
端から見れば蝶の羽ばたきに似ているように見えるかもしれない

210204→05 midnight

2021-02-05 | Weblog
今宵は半月だった。深夜、バルコニーで煙草を吸いながらその澄んだ月を眺め、何を思うか。少し前に見た月が満月に近かったことからの、月日の流れの早さを思うか。あっという間に過ぎ去っていく人生にしがみつくのか、楽しむのか、流すのか。側で寝息を立てているプリンセスに、心から感謝したい、いつも一緒にいてくれてありがとう。

そう、身体という、この手で触れることの出来る実体、実感を、これ程までに愛おしく思えたことはない。だって、いずれ消え去ってしまうから。今、この手の中にあったとしても、それがこちらの思いを越えて、一瞬でなくなってしまうから。それがこの世に生きるということの、究極の不条理であることを思い知らされた、この2年間だった。

それでも自分の中の「生きていく」というエネルギー・意志みたいなものは、一体どこから来るのだろうか、と思わずにいられない。仕事、プライベート関わらず、表面的には大変だけれども、実はそのコミュニケーションを楽しんでいる自分に気がつく。いろんなエネルギーの循環する感じが、自分にとって心地良いのだろうなという内省。

自分は「生かされている」と言うとチョット宗教的にはなるけれども、自分は一人で生きているわけではなく、まわりの人たちとの関係性の中で生きているということに思い至れば、「生かされている」ことにも自然と納得がいく。天や神からではなく、水平的な、今その現実の中における関係性の中で。

「笑い」についても少し考えたい。笑うことの身体的な効能の話は良いとして、なぜ人は笑うのか、笑ってしまうのか、面白いってなんだろう。枝雀師匠の「緊張と緩和」論もしかり、真面目に「笑い」を追求することのバカバカしさに、いつも笑って終わるというオチにて、今宵はお開きと。

210106 「知性」とは何か

2021-01-06 | Weblog
歴史的かつ地理的(文化的)な意味における自分の生きている現在の時空間を
GPS(Global positioning system)的に知りたいという性向の表れ

過去の多大なる書物(テキスト)から得られる知識やそこからの類推と想像力

「歴史を知ろうとしない人間に未来はない」と言った賢者の言葉にあるような
時空間を超えた脳の働き

201031

2020-10-31 | Weblog
満月の月光浴を心地よく穏やかに味わう

私の悲しみを覆うためにあなたに笑うのではなく
私の寂しさを補うためにあなたと居るのではなく
本当にあなたと一緒にいて穏やかだから一緒にいる
ただそれだけ

今はそれが少なくとも私にとって一番大切なこと
願わくば
それがあなたにとっても一番大切なことであれば
私は嬉しい

201029

2020-10-29 | Weblog
もはや自分は狂ってしまうのではないか?という問いが渦巻いた日。昼過ぎから緩やかに状況を打破すべく、身体を動かそうと散歩へと出かけた。

恵比寿から代官山、途中で思いがけず出会った馴染みのK弁当を仕込み、西郷山公園まで歩いて行った。途中、ヒルサイドテラス一連の槇文彦建築の、もはや歴史的数十年の重みを感じながら、あらためて建築デザインのストリートに与える影響なるものを思いめぐらしていた。

西郷山公園で弁当を食べ、過去に依頼され採寸した物件がどうなっているかと思いながら坂を下るも発見できず。池尻方面へと歩き、途中のポケットパークで喫煙し池尻へと向かうも、母高校の裏からのアプローチに散歩を広げ、そのまま駒場東大前駅へと。そこから井の頭線で渋谷に戻ったときに、知人からの連絡があった。

Djavanの変調とメロディーの自由さの心地よさに惚れている

2020-10-28 | Weblog
現代における音楽を規定している純コードから少し逸脱するような9thや13、6とか、詳しくは今学び始めている領域だけれど、現代もしくは近代社会を構築してきた心地よさというのは平均律であったり、音の世界を12音階で切り分けてきた心地良さであって、調が変わるとか不協和音に対する耐性がどこまであるかという話が、自分にとっての異物をどれだけ許容できるかというような、日々、日常における姿勢にも通じるのが、音楽の凄い所かもしれないと思い始めています。

インドや中東では、西洋音楽でいう12音階の間にさらに奥深い、音としての「刻み」がありますし、日本で言ったら、能楽の謡とか演歌のコブシ的なブレ、ゆらぎ感があるので。

201026

2020-10-26 | Weblog
今この時に生きているということの
政治的、経済的なものを超えて
抽象的概念を持てるということ
そしてそれをどのように
瞬間的に繋ぎ合わせることが出来るかということ

幸せな本の読み方

2020-10-14 | Weblog
自分の本棚にふと見つけた本を初めてのように読み始めて、その内容に新たなる視点を得られたとかなんとか思っていたら、読んだ本リストの中に3年前に読了していた記録を見つけて驚愕する。
読んだことを忘れていたことは事実だけれど、読みながら何となくどこかの雑誌の初掲ででも読んだことあるような感じはしていた、これはホント。
それでもたぶん、3年前から自分の視点も変化しているわけだし、あらためて読んでみて3年前の下地があるから読んでいてすーっと内容が入ってくるのだろうなとも思ったという、なんて幸せな本の読み方。

ごはん問題と料理問題について

2020-10-13 | Weblog
娘が学校へ行く時に、たまに昼食としてホットサンドを作って持たせたりしているけれど、授業の時間や状況的にコンビニで買ったりサイゼみたいな所で友達と食べてきた時には、請求して下さいなということにしている。事細かにレシートを見て計算しているわけではないけれど、先日「フラペチーノは?」と聞いてきたので「それはごはんではありません」と答えた。

いや待てよ、おにぎりやサンドウィッチならごはん、じゃあ肉まんは?アメリカンドッグは?お茶のかわりにフラペチーノだったらごはんに含まれる?などと考え始めたら、キリがなくなってくる。じゃがりこだって、お湯で戻してポテサラにするという話もあるし。江戸前の握り寿司は江戸時代の究極のファースト・フードだったわけだし、1日3食キッチリと食べていたことはなかったらしいし。

同様に、料理とはどこからが料理なのかという話。火や包丁を使うならば料理?じゃあ蕎麦を茹でてもり蕎麦は?レトルト・チンでも一手間加えたら?惣菜を買ってきて並べるのは?などと、コレもキリがない。
別に問題にするほどの話ではないけれど、いろんな人の意見を集めてみたくなる。

「エンターテインメント」について

2020-10-12 | Weblog
「子育てはエンターテインメントである」と思って娘を育ててきたつもり。
「entertainment」は語義的には「楽しませる」←『enter(互いに)tain(保つ)』とあるけれど、まあいいや。

娘がBabyの頃から色々と「楽しませる」ことをやってきたけれど、
逆に親としても子供の成長過程、中でも言語取得のプロセスについて
「あぁ、猿から人間になるというのはこういうことか」などとこちらも勝手に多大なる刺激を受けてきた。
それが「互いに保つ」ということだったのか。

「生まれ落ちてきたこの世界をどれだけ楽しめるか」というのが自分の根本的な考え方ではあるけれど、
それを娘にも伝えたいという気持ちがずっとある。
その上でこちらも成長してきた娘から様々な刺激をもらって、
なるほど「子育てはエンターテインメントである」と思ってきたことは、
あながち間違ってなかったのではないかと、思わされる日々。

少し引いて考えてみると、
「人生そのものがエンターテインメントである」とも思える。
周りの人々との日々のコミュニケーションの中に、
何かしら楽しめる要素を見つけることが出来るか否か。
出来れば毎日は楽しくなる。

音を取るということ

2020-10-11 | Weblog
ある楽曲のメロディーを追っていく
それをたとえ鼻歌であっても再現する
そこにそのメロディーを作った人との邂逅がある
音にのせられた言葉は分からなくとも
時代と場所と風土と文化を超えた流れがある

それを感じることが
音楽の醍醐味

快楽主義について

2020-09-28 | Weblog
数年前、まだ娘が小学校の高学年か中学に入った頃だったと思う。もう忘れたけれど、何かの話の流れから「オトチンは快楽主義者だから」と言ったら、娘が驚いたような顔をしたので内心、あれ?こりゃ教育的にも間違った発言をしてしまったかな?と思ったことがあった。娘がその言葉をどのように捉えていたかどうかは(んな発言、覚えてねぇだろうという確信のもとw)いいとして、その発言の意図をここで考察(言い訳)したい。

自分の「快楽主義」を定義すると、快楽だけを求めて生きているということではなく、常に自分を「快楽」と思える状況に持っていく人でありたいということ。自分の思い通りに行かないことや不快と思うことに直面した時に、どのように自分を位置付けるかを考え、自分が心地良いと思える方向へ持っていくことを意識すること。不快なことに対して「なぜ自分はコレが不快なのか」を紐解いていくことによって納得する、そのプロセス自体が快楽であると思えたならば、「Welcome to 快楽主義」

「都市の記憶」とは

2020-09-27 | Weblog
ここ数年の渋谷駅周辺の変貌ぶりは、激しい。日々通る道が変わるし、ほぼ半世紀渋谷に生まれ育った人間としても、もう「わからん!いい加減にしてくれ!」的な感想。ましてや、7年前に他界した本物のハチ公を撫でたことのある自分の父など、生きていたら今の渋谷は人生の迷路であろう。

人の記憶というのが、状況、情景、によって担保されるのではないかという考察のもと、渋谷駅周辺(だけではなく、どの街での開発・再開発でも現代においては全く同じなのだが)の変貌を見るにつけ、どんどん昔から馴染んできた風景が、自分の記憶の襞へと押しやられていく感じがある。

その根本を問うていくと、日本の近代化とは何ぞや、もしくは現代の情報化とは何ぞや。日本の伝統と現代、職人という身体感覚とAIのこれから、身体のあり方と食や今でいえばvirusとの関係、建築や空間の創り方と創れる素材の限定、法律や情報統制で出来る出来ない、等々、キリがない。

もう「都市の記憶」のようなものもリアルな体験としては無くて、ヴァーチャルな空間との境界が無い時代なのかもしれないと。今までの芦原、槇、丹下、海外ではクリエ、ヘルツベルハー、クールハース等の建築論や都市論すら、いつの時代の話ですか?なところまで来ている感がしてならない。

「都市の記憶」とは人々の記憶の集大成でしかないとしても、日々変わりゆく街を目の前にして、都市の得体の知れないモチベーションに動かされているものが一体何なのか、何処へと向かっているのかという興味は尽きない。(とはいえ、もうあまり興味なくなっているんだけどね)おしまい。

死とは時間を止めること

2020-09-26 | Weblog
1年半前に亡くなった妻のクロゼットを開ける
未だに手付かずの空間には
1年半流れていない時間が存在している
絶対的な時間の静止した空間

他の空間はその後の1年半の生活と共に
時間の流れた形跡があり日々の営みの中にあるが
ちっぽけなクロゼットの中だけは
時間は流れていない

この世に形なき姿となった時点で時間は止まる
細胞分裂も成長もしない
関わった人々の記憶という曖昧な領域において
止まった時間のままゆっくりと薄らいでいく