自分たちはびっくりしても「Oh, my god !!」や「Jesus !!」とは言わない。ましてや「Oh, my budda !!」でもない。「It」や「be動詞」の使い方まで、英語には神(ジーザス・クライスト)の姿が見え隠れする。もちろん英語圏にも「athest(エイシスト:無神論者)」と自称する人たちもいるが、言語体系の隅々にまで神が入り込んでいることへの矛盾を感じているのかどうかまではわからない。機会があったら聞いてみたい。
先週末の東京新聞で、「日本の神々」という特集をやっていた。日本という地域に住む人々は、いうまでもなく民間信仰として土着的な自然崇拝のもとに、様々な神々(八百神)と生活を共にしてきた。流入してきた仏教に対抗し、神社をその象徴として具現化してきた神道というのも、もともとは社(やしろ)のような象徴性は持たず、森の中に神が降りて来る場所が石を置く程度に示されていたにすぎない。(この辺の話は「沖縄文化論-忘れられた日本」岡本太郎(中公文庫)にも詳しく書かれている。)
多くの信仰が教会や仏像などのイコン(icon:象徴)を必要とする中で、「象徴のない信仰」の在り方というのは現代を考察する上でも興味深い。
先週末の東京新聞で、「日本の神々」という特集をやっていた。日本という地域に住む人々は、いうまでもなく民間信仰として土着的な自然崇拝のもとに、様々な神々(八百神)と生活を共にしてきた。流入してきた仏教に対抗し、神社をその象徴として具現化してきた神道というのも、もともとは社(やしろ)のような象徴性は持たず、森の中に神が降りて来る場所が石を置く程度に示されていたにすぎない。(この辺の話は「沖縄文化論-忘れられた日本」岡本太郎(中公文庫)にも詳しく書かれている。)
多くの信仰が教会や仏像などのイコン(icon:象徴)を必要とする中で、「象徴のない信仰」の在り方というのは現代を考察する上でも興味深い。
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