今日(というかもう昨日)、先週金曜日に行われた相方との対談の起こし(トータル2時間半のうちの約半分、半分は相方)を終えた。途中、言い出しっぺとして「何でこんな企画ぶち上げたんだろう」という自責の念も含みつつ(笑)、いざ話し言葉を活字にしてみると、それはそれで新たな発見がいくつかあった。
例えば、「もう少し整理してから…」という文章化するときの推敲が出来ない。その場では最大限のボキャブラリーを駆使して対応するのだけれど、相方が言ったことに対し「あぁ、こう言うべきだった」とか「こう言ったらもっと違う展開になったかも」と思う点が後になって多々あった。
思い返してみれば、仕事の上でも今までそういう場面が多々あり、悔やまれることも多かった。こうなってくると、自分は「言葉」に対して敏感なのか鈍感なのかさえも、覚束なくなってくる。
しかし、その「修正不可能性」が他者との対話というものの本質であるとするならば、その時のat mostの対応が、いわば端から見た自分としての「等身大」なのだとも思う。さて、旬な食材はそろいつつある。どのように調理・味付けしていくかが楽しみである。
例えば、「もう少し整理してから…」という文章化するときの推敲が出来ない。その場では最大限のボキャブラリーを駆使して対応するのだけれど、相方が言ったことに対し「あぁ、こう言うべきだった」とか「こう言ったらもっと違う展開になったかも」と思う点が後になって多々あった。
思い返してみれば、仕事の上でも今までそういう場面が多々あり、悔やまれることも多かった。こうなってくると、自分は「言葉」に対して敏感なのか鈍感なのかさえも、覚束なくなってくる。
しかし、その「修正不可能性」が他者との対話というものの本質であるとするならば、その時のat mostの対応が、いわば端から見た自分としての「等身大」なのだとも思う。さて、旬な食材はそろいつつある。どのように調理・味付けしていくかが楽しみである。
全部生かすように考えています。あのくらいで
まずはいいのかもしれません。