なくもの哲学と歴史ブログ

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西洋、東洋哲学
世界史、日本史
西洋神話

室町時代について

2024-05-16 21:36:00 | 日本史

【室町幕府】 

 室町時代とは、だいたい足利氏の幕府が続いた約240年間のことです。そのため足利時代と呼ぶこともあります。室町とは、京都の室町「花の御所」に幕府が置かれたので、そう呼ばれました。いつからいつまでを室町時代とするかには、狭義と広義の説があります。狭義の説は、南北朝時代から戦国時代までで、広義の説は、建武の新政が消滅した時から、足利義昭が信長に追放された時までです。ただし、広義の説の始まりの時期には、二つの説があります。始まりの時期を足利尊氏が建武式目「基本法」を定めた時にするか、征夷大将軍に任命された時にするかです。建武の新政は、天皇中心の政治だったので、武士の不満によって、わずか2年間で崩壊しました。南北朝時代とは、朝廷が、京都の北朝と奈良の南朝とに分かれていた時代です。

 【政治】 

 室町時代、将軍の下には「管領」という役職が置かれました。管領とは、将軍を補佐し、政務全権を統括する最高責任者のことです。足利一族の名門「細川」「斯波」「畠山」氏だけが管領になれました。その3氏を「三管領」と言います。室町幕府の中央機関として「侍所」「政所」「問注所」などが置かれました。それに対し地方に置かれたのが「守護」と「地頭」です。守護の方は、鎌倉時代からありました。もともと守護の権限は、軍事権と警察権だけでしたが、しだいに自国内の武士と主従関係を結ぶようになり、その国を自分の領土としていったとされています。自分の国を守るために武装していったのが、後の守護大名です。守護大名の登場は、戦国時代のきっかけとなりました。

 【産業】 

 室町時代には、商業と農業が発達しました。戦乱から農地を守るために作られたのが「惣」という村の自治組織です。農業では、二毛作が広まりました。二毛作とは、一つの耕地に2種類の作物を栽培することです。その耕地には「桑」「茶」などが栽培されました。室町時代に茶の湯が流行したのは、日本でも茶が栽培されるようになったからです。工業も発展し「陶器」「絹織物」「鍛治」「鋳物」などの職人が誕生しました。同業種の商人たちによって作られたのが「座」という組織です。座は、武士や貴族にお金をおさめることによって、営業の独占的な権利を持つことが出来ました。高利貸しの業務を行ったのが土倉」や「酒屋」などの裕福な商人たちです。

 【日明貿易】 

 三代将軍足利義満は、中国の明から日本国王と認められ、貿易によって大きな利益を得ていました。それを「日明貿易」と言います。日明貿易は、勘合貿易でした。勘合とは、貿易船と船を襲う倭寇「海賊」とを区別するために、発行された証明書のことです。明からは、銅銭や絹を輸入しました。 逆に日本から輸出したものは「刀」「槍」「扇」「硫黄」などです。ただし、義満以降は、中断していた時期もあります。 

 【北山文化と東山文化】

 室町時代初期、1415世紀頃の文化を「北山文化」と言います。足利義満が北山山荘で、展開した文化なので「北山文化」と名づけられました。北山文化は、公家と武家の文化が融合した新しい文化だとされています。大陸文化の影響を受けていたので、豪華で派手な文化でした。北山文化で、最も有名な建築物が金閣寺です。芸術では、義満が能を手厚く保護しました。

 北山文化に対して、東山文化は、簡素で上品な文化です。東山文化は、中国文化の影響を排し、純粋な日本風の文化を目指しました。「わび、さび」などの日本人特有の美意識は、この頃形成されたものです。東山文化が始まったのは、室町中期の8代将軍足利義政の頃からだとされています。義政は、文化的な活動に尽力したことで有名です。東山文化には、禅宗の影響があります。そのため「庭園」「茶の湯」「華道」などが発展しました。東山文化の建築様式を「書院造り」と言います。書院造りは「床の間」「違棚」「ふすま」など、現在の和室の原型となりました。



1980年代の日本

2024-04-02 12:39:00 | 日本史

【日米自動車紛争】 

 戦後の日本は、順調に経済が復興し、1980年代前半には、輸出産業が伸び、大幅な貿易黒字となりました。そこで、引き起こされたのが、アメリカとの貿易摩擦です。日本が、高い技術力で小型の低燃費自動車を生産したので、アメリカは、貿易赤字となりました。アメリカの自動車は、大型の大量排気型モデルだったので「排ガス規制」や「オイルショック」の影響もあり、日本車にシェアを奪われたとされています。米国の消費者が、燃費の良い日本の小型車を求めたので、日本からの輸入が急増しました。日本の自動車の生産量が、アメリカを抜いて世界一となったのもその頃です。一方、アメリカの大手自動車会社は、業績が悪化し、従業員が、リストラに追い込まれました。それに反発して行われたのが、日本車をたたき潰す「ジャパン・バッシング」です。そこでアメリカ政府は、日本車の輸入を制限しましたが、それはアメリカの消費者の利益には反することでした。 

 【プラザ合意】 

 アメリカの貿易赤字の大半は、対日本との貿易によるものです。アメリカ国内では、自国製品の売上が低迷し、景気は悪化しました。その景気を改善するために行われたのが「プラザ合意」です。プラザ合意の狙いは、アメリカの輸出競争力を高め、貿易赤字を削減することでした。日本がこれに合意したのは、アメリカとの関係を良好に保つためです。プラザ合意によって、日本では、円高の影響で輸出が減少し、いったん国内の景気が低迷しました。それに対して、日本銀行が行なったのが低金利政策です。日本の企業は、この低金利を利用し、銀行からお金を借りて土地を買い、その土地を担保にさらにお金を借りて、土地を増やしました。

 【バブル景気】 

 80年代、土地神話は、まだ疑われていませんでした。そのため、過剰な不動産への投資が、バブル景気の始まりだったとされています。工場を作るために必要なのが「土地」です。当時は、工場を作りたい企業が多くあったので、地価がどんどん上がりました。地価の高騰を受けて、盛んになったのが、転売を目的とした土地の売買です。80年代、土地への投資を行う企業や個人が続出しました。なぜなら、土地に投資するだけで利益が得られたからです。彼らは、お金を借りてまで、新しい土地を次々と購入しました。こうした手法でお金儲けることを「財テク」と言います。当時、転売用の土地を確保するための悪質な地上げが横行し、住宅の打ち壊しや、放火などの事件が相次いだことが社会問題となりました。

 【リクルート事件】 

 リクルート事件は、昭和と平成の間の1988年に起きた戦後最大の企業犯罪と呼ばれる贈収賄事件です。この事件で、賄賂として譲渡したものが、現金ではなく、値上確実な未公開株という新しい手法だったので、注目されました。リクルート側の目的は、自社の政界や財界での地位を高めることです。その相手が、有名政治家や官僚だったので、大きな政治、企業的スキャンダルとなりました。この事件は、政治とカネの関係性の在り方を見直すきっかけになったとされています。


明治時代

2024-03-30 10:56:00 | 日本史

【明治維新】 

 明治維新とは、幕末から明治政府が成立するまでの一連の大改革のことです。まず徳川幕府は「大政奉還」によって、天皇へ政権を返上しました。その発表のことを「王政復古の大号令」と言います。それにより、徳川慶喜の政治的影響力はおさえられました。この時、新政府の基本方針を示したのが「五箇条の御誓文」です。明治政府は「経済の発展」と「軍事力の強化」によって近代的な国家をめざしました。それを「富国強兵」と言います。富国強兵を実現するための手段の1つが「殖産興業」でした。

 【殖産興業】 

 殖産興業は、日本が発展する基礎となりました。産業発展のためにつくられのが「官営模範工場」です。官営模範工場は、もともと官営事業でしたが、その後民営になりました。例えば、群馬の「冨岡製糸工業」や福岡の「八幡製鉄所」などが官営模範工場です。冨岡製糸工業は、最新の蒸気で動く機械を導入して、生糸の生産や質を高めました。八幡製鉄所は、もともと日清戦争の賠償金で作られたものです。製鉄所では、主に石炭と鉄鉱石が使われます。石炭は、八幡村で採れましたが、鉄鉱石の方は、中国から輸入しなければいけませんでした。

 【廃藩置県】 

 江戸時代の幕藩体制において、地方を支配していたのが藩主「大名」です。藩主は、土地と民衆を朝廷に返しました。それを「版籍奉還」と言います。版籍奉還によって、全ての藩が廃止され、代わりに府や県が置かれました。それを廃藩置県と言います。藩主は、知藩事となり、東京に住むことが命じられました。地方行政を担当するために、中央政府から府や県に派遣されたのが「府知事」や「県令」です。廃藩置県よって、中央集権的な国家が誕生し、国内の税収と統治が安定しました。江戸時代は、鎖国によって外国から孤立していたことで、比較的平和だったとされています。明治政府が、順調に中央集権化を進めることが出来たのは、もともと日本人としての民族や文化的な同一性が高かったからです。

 【四民平等】

 明治初期、身分制度が廃止され、皇族以外のすべての人々が、平等になりました。それを四民平等と言います。藩主や貴族「華族」も最終的には、平民となりました。庶民が名字を名乗るようになったのは、明治からです。身分がなくなったので、住む場所や「職業」や「結婚」までも自由に選択できるようになりました。 

 【文明開花】 

 明治時代に、暦を西洋と同じ太陽暦に変え、1日を24時間としました。正確な時刻というものを意識し始めたのは、この頃からだとされています。街にはガス灯が灯され、人々は洋服を着て歩きました。日本人が、洋風のものも食べるようになり、食生活が欧米化したのも明治からです。明治時代に整備されたものに、鉄道があります。1872年には、東京新橋~横浜間が開通しました。鉄道の別名を「陸蒸気」と言います。その材料は、イギリスから輸入していました。 

 【軍事】

 明治時代、天皇が現在の皇居に住むようになり、首都が京都から東京に移りました。日本では、天皇が住む所が首都だとされています。明治政府は、天皇を頂点に据えた中央集権的な国家でした。そのため、軍隊も天皇のものだとされています。当時の日本は、西洋列強の脅威にさらされており、北のロシアとは緊張関係にありました。そのために置かれたのが開拓使です。当時の政府は、国を守るためにという名目のもとに、容易に国民を軍事に参加させることが出来ました。


大正時代の日本

2023-10-11 12:49:00 | 日本史

【大正デモクラシー】 

 大正デモクラシーとは、日露戦争後から大正末年までに展開された、自由主義・民主主義的な風潮をさします。その目標は、それまでの「幕藩政治」を否定し、政治に国民の意思を反映させることです。具体的には「政党政治」「労働運動」「社会主義」として展開されました。背景にあったのは、産業革命以降の「労働問題」や「都市問題」などです。大正デモクラシーの影響は「政治」「社会」「文化」など多方面に現れました。 

 【民本主義】 

 大正デモクラシー運動の理論的根拠となったのが吉野作造の「民本主義」です。民本主義は、民衆を第一とし「民衆の福利」を目標としていました。その具体的な目的は「普通選挙法」や「政党内閣制」を実現することです。 民本主義と似たものに、民主主義があります。民主主義は、もともと欧米から入ってきたものです。そのため、欧米風の民主主義を、日本にそのまま適用させるわけにはいきませんでした。民主主義では、主権は国民にあります。その国民の民意に基づいた政党が議会を行うものでした。それを政党政治と言います。民本主義では、民主主義を実行しつつも、あくまで主権は天皇にありました。 なぜなら、当時の日本の憲法では、主権は天皇にあったからです。

 【天皇機関説】 

 本格的な「政党内閣」が誕生したのは、原敬内閣の時です。政党政治の理論的な根拠になったのが、憲法学者「美濃部達吉」の「天皇機関説」です。天皇機関説では、天皇は、国家の上に君臨する神のような存在ではありません。あくまで国家の中の1つの機関に過ぎないとされました。いくら天皇を中心とする政治でも、国家が機能するためには、政府や議会など、他の機関の協力を必要とするからです。

 【普通選挙】 

 加藤高明内閣の時に成立したのが「普通選挙法」です。普通選挙法は、平等を原則としており「納税額」「財産」「教育」などの資格要件がありませんでした。ただし、参政権が与えられたのは、25歳以上の男子だけです。この時点では、女性には参政権がありませんでした。普通選挙に対するものを制限選挙と言います。政府が、普通選挙法とともに導入したのが「治安維持法」です。治安維持法は、共産主義など政府にとって都合の悪い思想を弾圧するものだったので、第二次世界大戦後、民主主義的ではないとしてGHQが廃止しました。 

 【第一次世界大戦】 

 大正時代、世界では、第一次世界大戦が起こりました。戦争のきっかけは、オーストリア皇太子夫妻がセルビアで暗殺されたことです。第一次世界大戦とは「三国同盟」と「三国協商」との戦争で、歴史上最初の総力戦でした。総力戦とは、一般市民の生活にも深刻な影響を与える戦争のことです。第一次世界大戦では「毒ガス」「戦車」「飛行機」などの近代兵器が使用され、4年半も続きました。その主な戦場だったのが、ヨーロッパです。日本は、日英同盟に基づき参戦し、中国の山東省の青島に進軍し占領しました。戦争の結果、日本は、工業国としての基礎が築かれます。日本が大国の仲間入りを果たすことが出来たのは、そのおかげです。戦後「大戦景気」と呼ばれる好景気に沸き、国民の生活水準は上がりました。


2000〜10年までの日本

2023-10-08 22:03:00 | 日本史

【中央省庁の再編】 

 2001年に、中央省庁が再編されました。その目的は、これまでの縦割り行政による弊害を排除し、効率化を図ることです。行政の効率化によって「事務」や「事業」などが軽減されました。中央省庁の再編よって、強化されたのが内閣の機能です。新設された内閣府には「政策調整制度」が導入されました。内閣府の役割は、上の立場から、それぞれの省を総合的に調整することです。政策調整制度によって、各府省がお互いに意見を出し合う環境が作られました。中央省庁の再編は「明治維新」「戦後の改革」に次ぐ「第三の改革」だとされています。

 【小泉政権】 

 第87代内閣総理大臣に就任したのが「小泉純一郎」です。小泉内閣は、戦後最高の81%という圧倒的な支持率でした。国民に支持された理由は「自民党をぶっ壊す」などのシンプルなキャッチフレーズがウケたからだとされています。小泉純一郎は、自民党でしたが、保守的ではなく、革新的な政策を実施しました。その一つが、日本経済の再生を目指す「聖域なき構造改革」です。聖域なき構造改革は「小さな政府」「官から民へ」「中央から地方へ」などを理念としていました。その理念によって、民間の活力を引き出そうとしたからです。例えば、民営化されたものに郵政事業があります。外交面では、北朝鮮を訪問し、金正日総書記と会談しました。その成果が、拉致被害者の帰還です。

 【労働者派遣法改正  

 2003年、労働派遣法の改正により、派遣労働の規制が緩和され、製造業への派遣などが解禁になりました。労働派遣法とは、派遣労働者を保護するための法律です。改正によって、同一労働同一賃金が実現され、派遣可能期間も実質的に撤廃されています。しかし、2008年のリーマン・ショック以降は、世界的に不況におちいりました。その際、雇用の調整役となったのが製造業の派遣社員です。派遣先が、派遣元との契約を解約・不更新をすることによって失業者が増えました。それを「派遣切り」といいます。派遣切りは、社会問題となり、大きく報道されました。 

 【大規模小売店舗立地法】 

 2000年に「大規模小売店舗立地法」が施行されます。それによって、全国的に大型ショッピングモールの開発ラッシュが始まりました。ショッピングモールとは、ショッピングセンターの大規模なもののことです。それまでは、大型店舗の出店は,中小小売業の保護のために国が規制していました。規制していたのは、大型店舗との競争によって、中小小売業が潰れないためです。ショッピングモールは、大規模小売店舗立地法の施行により,地域の実態をみて、各自治体が調整することになりました。地域の実態とは、住民の生活環境が守られるかどうかです。自治体は、周辺地域の「交通渋滞」「騒音」「廃棄物問題」などの生活環境に考慮する必要がありました。確かに、大型店舗の出店によって、町は快適で利便的になったかもしれません。しかし、町の風景が歴史や伝統と切り離されて、均一化されてしまいました。