なくもの哲学と歴史ブログ

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西洋、東洋哲学
世界史、日本史
西洋神話

明治時代

2024-03-30 10:56:00 | 日本史

【明治維新】 

 明治維新とは、幕末から明治政府が成立するまでの一連の大改革のことです。まず徳川幕府は「大政奉還」によって、天皇へ政権を返上しました。その発表のことを「王政復古の大号令」と言います。それにより、徳川慶喜の政治的影響力はおさえられました。この時、新政府の基本方針を示したのが「五箇条の御誓文」です。明治政府は「経済の発展」と「軍事力の強化」によって近代的な国家をめざしました。それを「富国強兵」と言います。富国強兵を実現するための手段の1つが「殖産興業」でした。

 【殖産興業】 

 殖産興業は、日本が発展する基礎となりました。産業発展のためにつくられのが「官営模範工場」です。官営模範工場は、もともと官営事業でしたが、その後民営になりました。例えば、群馬の「冨岡製糸工業」や福岡の「八幡製鉄所」などが官営模範工場です。冨岡製糸工業は、最新の蒸気で動く機械を導入して、生糸の生産や質を高めました。八幡製鉄所は、もともと日清戦争の賠償金で作られたものです。製鉄所では、主に石炭と鉄鉱石が使われます。石炭は、八幡村で採れましたが、鉄鉱石の方は、中国から輸入しなければいけませんでした。

 【廃藩置県】 

 江戸時代の幕藩体制において、地方を支配していたのが藩主「大名」です。藩主は、土地と民衆を朝廷に返しました。それを「版籍奉還」と言います。版籍奉還によって、全ての藩が廃止され、代わりに府や県が置かれました。それを廃藩置県と言います。藩主は、知藩事となり、東京に住むことが命じられました。地方行政を担当するために、中央政府から府や県に派遣されたのが「府知事」や「県令」です。廃藩置県よって、中央集権的な国家が誕生し、国内の税収と統治が安定しました。江戸時代は、鎖国によって外国から孤立していたことで、比較的平和だったとされています。明治政府が、順調に中央集権化を進めることが出来たのは、もともと日本人としての民族や文化的な同一性が高かったからです。

 【四民平等】

 明治初期、身分制度が廃止され、皇族以外のすべての人々が、平等になりました。それを四民平等と言います。藩主や貴族「華族」も最終的には、平民となりました。庶民が名字を名乗るようになったのは、明治からです。身分がなくなったので、住む場所や「職業」や「結婚」までも自由に選択できるようになりました。 

 【文明開花】 

 明治時代に、暦を西洋と同じ太陽暦に変え、1日を24時間としました。正確な時刻というものを意識し始めたのは、この頃からだとされています。街にはガス灯が灯され、人々は洋服を着て歩きました。日本人が、洋風のものも食べるようになり、食生活が欧米化したのも明治からです。明治時代に整備されたものに、鉄道があります。1872年には、東京新橋~横浜間が開通しました。鉄道の別名を「陸蒸気」と言います。その材料は、イギリスから輸入していました。 

 【軍事】

 明治時代、天皇が現在の皇居に住むようになり、首都が京都から東京に移りました。日本では、天皇が住む所が首都だとされています。明治政府は、天皇を頂点に据えた中央集権的な国家でした。そのため、軍隊も天皇のものだとされています。当時の日本は、西洋列強の脅威にさらされており、北のロシアとは緊張関係にありました。そのために置かれたのが開拓使です。当時の政府は、国を守るためにという名目のもとに、容易に国民を軍事に参加させることが出来ました。


イスラエル王国について

2024-03-28 21:56:00 | 世界史

【サウル】 

 サウルは、イスラエル王国の初代国王で、パレスチナの地に王国の基礎を築きました。ただし、歴史的には、その存在は不確実だとされています。当時、イスラエルは、巨人ゴリアテが率いるペリシテ人の侵略に苦戦していました。そのゴリアテを倒したのが、イスラエルの羊飼いの青年ダビデです。ダビデは、この功績によって国民的英雄とされました。しかし、サウルは、ダビデの人気に嫉妬し、命を狙うようになったとされています。そのダビデを助けたのが、サウルの息子ヨナタンでした。ヨナタンとダビデは、固い友情で結ばれていたとされています。その後、サウルとヨナタンが、ペリシテ人との戦いで死んだので、ダビデが新しい王となりました。

 【ダビデ王】 

 イスラエル王国2代目の王となったのがダビデです。ダビデは、イスラエル人の理想の王者だとされています。その名前の由来は「親愛なる人」です。一説では、旧約聖書の詩篇の作者だとされています。ダビデは、もともと、ベツレヘム出身のただの羊飼いにすぎませんでした。しかし、竪琴の名手だったので、サウルに召し抱えられたとされています。ペリシテのゴリアテを倒してからは、将軍としても活躍しました。活躍出来たのは、もともと勇敢で頭が良く、軍事的な才能もあったからです。

 王になってからは、宿敵ペリシテ人を降伏させ、最終的には、周辺民族のほとんどを征服したとされています。ダビデは、エルサレムの地を征服し「契約の箱」を置いて、そこを都としました。契約の箱とは、宗教的なシンボルで、イスラエル人の団結のしるしだとされています。ダビデの正妻は、サウルの娘ミカルです。しかし、家臣の妻バドシェバとの間にも不倫で出来た子供がいました。これは、当時の倫理観からも、よくなかったとされています。そのため、ダビデは、後世の潔癖なピューリタンからは嫌われました。

 【ソロモン】 

 イスラエルの3代目の国王となったがソロモンです。ソロモンは、バドシェバとの子で、ダビデの末子でした。その名前の由来は「平和に満ちた」です。父ダビデの命令で後継者に指名されました。ソロモンは、大変賢い王だったとされています。特に赤ん坊の所有権を争った2人の女を裁いた逸話は有名です。また、イスラエルを訪問した「シバの女王」の難問にも全て解答することが出来ました。一説では、旧約聖書の「雅歌」と「箴言」の著者だとされています。

 ソロモンは、ヤーウェ神殿をエルサレムに建設しました。ヤーウェとは、イスラエル人の神様のことです。ユダヤ教は、一神教なので、神様はヤーウェしかいません。ユダヤとは、他称であり、自称は、イスラエルです。 ソロモンは、従来の部族制を解体した上で、行政区域を12分割し、それぞれに長官を派遣しました。その住民には、徴税や賦役の義務があったとされています。商業では、広範な海上交易網で、通商を盛んにし、軍事面では、常備軍を設置しました。ソロモン王の治世は「ソロモンの栄華」と呼ばれるイスラエル王国の絶頂期だったとされています。

 しかし、晩年のソロモンは、オリーブ山で、ハーレムのような生活を送ったので、評価を落としました。そのため、オリーブ山は「冒涜の丘」と呼ばれています。ソロモンは、アシタロテ、モロクなど異教の神を祭るようになりました。この頃に、ヤーウェからは、見放されたとされます。ソロモンの死後、イスラエル王国は、北と南に分裂しました。



フェニキア人と「アルファベット」

2024-03-27 19:18:00 | 世界史

【フェニキア人】 

 フェニキア人は、セム系の民族で、旧約聖書では「カナン人」と呼ばれています。カナン人とは、ギリシャ語の呼び方です。フェニキアという名前の由来は「紫色」だとされています。紫色は、その地方特産の染料の色のことです。フェニキア人は、もともとパレスチナ「現在のレバノン」地方で暮していました。この地域は、旧約聖書に出てくる「約束の地」のことです。約束の地は「乳と蜜が流れる地」と言われていました。旧約聖書では、イスラエルの英雄サムソンがこの地を征服したとされています。歴史的には、フェニキアは、エジプトに破れて植民化させられています、その時、エジプトから重税を課せられました。

 【交易】

 フェニキア人は、もともと耕作に適さない土地に住んでいました。そのため海洋に出たとされています。きわめて先進的な海洋民族であり、船を巧みに操る航海術を持っていました。フェニキア人は、地中海での商取引を生業とする世界初の交易商人だったとされています。その優れた航海技術によって、地中海の貿易をほぼ独占しました。それが可能だったのは、商業の才能もあったからです。フェニキア人は、貿易によって莫大な富を築きました。 

 フェニキア人の船は、レバノン杉を材料としています。レバノン杉は、耐久性があり、良い香りもしました。しかし、あまりに伐採し過ぎたため、レバノン杉は、現在ごく一部の地域にしかありません。フェニキア人は、交易によって広大な貿易網を築き、その過程で、拠点となる植民市を建設していきました。有名な植民市の一つが、カルタゴです。カルタゴは、後にローマ帝国と覇権を争いました。その現在の位置は、チュニジアです。の交易することで、各地にオリエント文明が伝わったので、フェニキア人は、ヨーロッパ文明の父と言われました。

 【アルファベット】 

 貿易を支配するには、情報の伝達が欠かせません。そのために発展させたのが文字です。フェニキア語「ポエニ語」は、アルファベットやギリシャ語など、あらゆる欧州文字の原型となりました。ちなみにギリシャ文字のアルファとベータが、アルファベットの語源だとされています。フェニキア語は、エジプトの象形文字や楔形文字を発展させたものです。その文字は、表音文字に改良されました。なぜなら交易をするためには、簡略な表音文字の方が効率的だったからです。現在でも、フェニキア人の表音文字を用いた記録が残っています。 

 【職人】

 フェニキア人は、高度な技術を持つ職人だったとされます。また優れた発明家でもありました。フェニキア人が発明したものは、文字だけではありません。発明されたものには、小回りがきく二頭立ての戦車などがあります。また、フェニキア人は「ガラス細工」「象牙の彫刻」「木工」「繊維の染色」などの優れた職人でもありました。その技術によって、イスラエルのソロモン王の神殿にも雇われたとされています。




スキタイ人と「遊牧騎馬民族」

2024-03-26 19:24:00 | 世界史

【スキタイ人】 

 スキタイ人は、イラン「ペルシャ」系の人種で、単一の民族ではなく、多数の民族から構成されていました。もともとの居住地は、ウクライナ地方の北部や、黒海の北周辺です。遊牧民であったため、定住はせず、ある一定地域の範囲内で、季節的ごとに移動を繰り返していました。遊牧民の生活拠点は、主に乾燥した草原地帯です。ユーラシア大陸の「遊牧騎馬民族」としては最初に登場しています。遊牧と騎馬は、初めから結び付いていたわけではありません。スキタイ人は、初めてそれを結合させました。それによって、世界最古の遊牧騎馬民族国家を築くことが出来たとされています。

 【生活と文化】 

 スキタイ人は、基本的に遊牧民だったため、農耕はせず、必要なものは全て家畜から作っていました。例えば「ミルク」「バター」「チーズ」などの乳製品です。彼らにとっては、所有する家畜の数が財産でした。スキタイ人は、固有の文字を持たなかったために、ほとんど記録は残されていません。しかし、黄金の埋葬品などが発見されており、そこから高度な金属文化があったとされます。スキタイ人は、熟練した手工芸職人でもありました。神殿などの建築物を作りませんでしたが、先祖の墳墓は崇拝していました。 

 【軍事】 

 スキタイ人は、騎馬技術に優れた遊牧騎馬民族で、人類で最初に「騎馬軍団」を編成しました。スキタイの騎馬軍団は、機動力がある軽装騎兵隊「軽騎兵」です。その兵士は、きわめて勇敢でした。騎馬の起源は、ヒッタイトだとされています。乗馬をするには「手綱」「はみ」「くつわ」が少なくとも必要です。そのうち「鉄のはみ」は、ヒッタイトが発明したとされています。蒸気機関車以前の乗り物で、最速だったのが馬です。馬の機動性は、戦争において、強力な兵器となりました。スキタイ人は「防具」「武器」「車」「馬具」なども発展させています。特に弓が強化され、矢にはカエシが付き、毒が塗られました。スキタイ人は、そうした強力な武器と、神出鬼没の騎馬戦術によって、農耕地帯を略奪し、領土を拡大していきました。

 スキタイは、軍事力と巧みな戦術によって、ギリシャや大国ペルシャにも勝利しています。ペルシャのダレイオス1世の遠征軍も、スキタイ騎兵の機動力には歯がたたず、撃退されました。また、スキタイ人は、メディア人と手を結び、軍事大国アッシリアをも倒しています。最終的には、ゲルマン人の一派、東ゴート人に滅ぼされました。ローマ帝国時代に入ってからは、スキタイの王国は崩壊しています。

 【伝説】 

 伝説でのスキタイ人は、ギリシャの英雄ヘラクレスと蛇女エキドナの子孫だとされています。スキタイ人に、弓術を教えたとされるが、そのヘラクレスです。また、ギリシャ神話に登場する半人半馬の怪物ケンタウロスは、スキタイ人がモデルだとされます。当時のギリシャ軍の主力は、重装歩兵だったので、巧みに馬を操る騎兵を見たことがありませんでした。そのため、スキタイの騎兵を見た時、ケンタウロスだと思ったとされてます。

 スキタイ人の墓からは、武装した女性が発見されました。そのため、女性の戦士がいたとされてます。このことから、スキタイ人が、アマゾネスのモデルだという説が出ました。アマゾネスとは、ギリシャ神話に登場する弓術に優れた女性だけの軍団のことです。また別の説では、スキタイ人の服装が、女性のようだったので、女戦士だとしたともされています。



ヒッタイトの「鉄」と「チャリオット」

2024-03-24 21:11:00 | 世界史

【ヒッタイト】

 ヒッタイト帝国は、前17世紀頃、アナトリア地方「現在のトルコ」の荒野に誕生した多民族国家です。アナトリアは、荒涼とした大地が続く厳しい自然環境でした。ヒッタイト人は、コーカソイド系のインドヨーロッパ語族だったとされています。もともとアナトリア地方に住んでいた先住民族のハッティ人を征服し、ハッティ語や楔形文字などの文化を継承しました。ヒッタイトは、独自の法制度を持つ専制的な王政だったとされています。

 【鉄】 

 ヒッタイトは、オリエント世界で初めて、鉄を実践的な武器として利用しました。その鉄で、ヒッタイト帝国をオリエントの一大強国にしたとされています。強靭な鉄は、当時の最先端の金属でした。ヒッタイトは、製鉄技術を独占するため、その方法を国家機密として厳しく守らせたとされています。鉄以前に、主要な武器として、使用されていたのが青銅です。青銅は、銅とスズの合金で、鉄より硬さで劣り、重量があるという欠点がありました。当時使われていた鉄の原材料は、隕鉄だったとされています。現在では、鉄鉱石が原材料です。鉄を溶かすためには、1200度前後という高い温度に保つ必要があります。それは、青銅よりも500度も高い温度です。そのため、製鉄には、高度な冶金技術が必要でした。ヒッタイトが滅亡した時、独占していた鉄器製造技術が拡散され、青銅器時代から、鉄器時代へ移行したとされています。

 【チャリオット】

 ヒッタイトは、鉄製の武器によって絶大な軍事力を誇りました。鉄以外で、ヒッタイトが、軍事的に優れていたのが「騎馬」と「戦車」を巧みに操る技術です。その革新的な戦術は、アッシリア帝国に受け継がれました。ヒッタイト軍の主力は、古代の戦闘用戦車「チャリオット」です。チャリオットとは、二頭の馬に引かせた鉄製の車輪の馬車のことで、高速で移動しながら、敵に弓矢を射たり、槍で打撃を加えることが出来ました。ただし、チャリオットは、機動力では騎兵に劣っています。人類は長い間、馬を乗りこなすことが出来きませんでした。それを可能にしたのが、ヒッタイト人が発明した「鉄のはみ」です。鉄のはみによって、長時間の移動が可能になりました。 

 【カデシュの戦い】 

 ヒッタイトは、鉄製の武器とチャリオットによって、オリエント世界の列強一つに数えられました。戦いに強く、強国のミタンニを破り、バビロニア第一王朝をも滅ぼしています。戦争の中で、特に有名だったのが、エジプト新王国とのカデシュの戦いです。カデシュの戦いでは、エジプトの名君ラムセス2世を相手に善戦し、引き分けました。この時、両国で交わされたのが、世界最古の成文化された国際平和条約だったとされています。条約は「領土不可侵」と「相互軍事援助」という内容でした。条約を交わした理由は、共通の敵である「海の民」がいたからです。しかし、最終的には、ヒッタイトも、その海の民に滅ぼされてしまいました。