なくもの哲学と歴史ブログ

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ニーチェの「永劫回帰」

2024-03-19 12:21:00 | 西洋哲学

【永劫回帰】 

 ニーチェ哲学の中核であり、その大前提となる思想が永劫回帰でした。永劫回帰とは、全てのものが生成し、永遠の円環運動を営むことです。その全過程は、まったく同じ順序に従っています。ニーチェは、この世界には、始めと終わりがないとしました。世界は、何もないところから、突然生まれたわけではないとしています。原因もないのに、何が起こることはないからです。 また、この世界が生成し終えて、無という完成された状態にならないとしました。もし、そのような状態があるなら、それは、すでに達成されていたはずであり、また、そうなる理由や根拠もないからです。そのため、あるのは永遠の繰り返しだけだとしました。

 【時間と瞬間】 

 この世界は、無限回の反復のうちにあります。反復するのは、世界が、無際限に新しいものを創造することも出来ないからです。そのため、世界は、永遠に同じことを繰り返しているのだとしました。ニーチェは、それを目的を持たない、赤子の戯れに例えています。

 永遠回帰では、時間は直線的ではありません。あるのは、それぞれの瞬間の配置だけだからです。その配置は、各瞬間の相互の位置関係によって決まっています。我々が体験しているのは、ある特定の瞬間だけです。それぞれの瞬間は、永劫回帰全体の特定の位置にすぎません。全ての瞬間は、すでに無限回達成されてきました。「未来」「過去」「現在」は、絶対的のものではなく、事物の総体的歩みの位置でしかありません。

 【関係性と連続】 

 多様に見えるこの世界も、一つの連続した全体的生成だとされています。それらは、相互に連携していました。一つの結合関係は、全ての結合関係の条件となっており、それぞれは、相互の関係性によって、制約されています。その中で、孤立しているものは何もありません。それらは、常に全体として動いているからです。世界の全過程は、正確で間違うことがありません。そのため、世界で起こる出来事は、いつでも同じになります。 

 【権力への意志】

 世界の生成は、一定量の有限な力です。ニーチェは、それを「権力への意志」と名付けました。権力への意志は、物理学のエネルギーのようなものです。その全体は、恒常不変で、減りもしなければ、増えもしませんでした。相互に変換はされても、その全体量は、常に保存されています。権力への意志は、静止することがありません。ニーチェは、権力への意志は、一つの全体であり、世界は、それ以外の何者でもないとしました。世界には、一つの総体的な性格があります。権力への意志は、永遠に渡って、ただ一つのこの世界だけを生成し続けてきました。 

 【運命愛】 

 永劫回帰では、運命が決まっていることになります。何者も、その運命からは、逃れることは出来ません。我々も生成の全連鎖の一つであり、その条件になっているからです。同じ出来事が、無限に繰り返えされているとするならば、そこに救いというものがありません。そのため、永劫回帰は、実に重い思想だとされています。それを告知するのが超人です。超人は、運命が既に決まっているものだとしても、それを愛せよと説きました。それを運命愛と言います。


ニーチェの「ルサンチマン」

2024-03-18 09:59:00 | 西洋哲学

【ルサンチマン】 

 ルサンチマンとは、フランス語で「怨念感情」や「反感」という意味です。ニーチェは、ルサンチマンを社会的弱者が抱く、支配者に対する復讐心だとしました。ルサンチマンは、高貴なものを引きずり下ろそうとします。ニーチェは、それを弱者の復讐心だとました。大多数の人間は、一般大衆であり、社会においては、支配される弱い立場にあります。ニーチェは、ルサンチマンが、その大衆たちの精神世界で、一つの敵対運動として働いたとしました。それは、想像上の復讐にとどまり、実際に行動するわけではないとされています。

 【価値の転倒】 

 ルサンチマンは、一般大衆の中で、創造的となり、価値を生み出すようになりました。人間は、自己保存の本能として、不幸に耐えるための手段を考え出すものです。そこで、これまでの価値観を根本的に転倒しようとしました。ルサンチマンは、高貴なものに対する一種の抵抗だとされています。例えば、古代ローマ時代の支配者は、ローマ人たちでした。ローマ人にとって「善い」とは、強くて優秀なことだったとされています。しかし、大衆が力を持つようになってからは、それが変わってきました。大衆によって、報復しない無力さが「善さ」に、臆病さが「謙虚さ」に変えられたとされています。そうした価値観を持っていたのは「キリスト教徒」でした。また、キリスト教には「同情」「平等」「博愛」と言う価値観もあります。ニーチェは、それを弱者が自分を正当化するために復讐心から生み出したものだとしました。

 【キリスト教】 

 古代ローマ時代、大衆が力をつけた背景には、キリスト教の影響があったとされています。キリスト教とは、もともとユダヤ教から派生したものです。ローマ帝国時代、異民族のユダヤ人たちは、支配される側の人間でした。そのユダヤ人たちが信仰していたのがユダヤ教です。ニーチェは、そのユダヤ人たちが、ある種のルサンチマンを持っていたと考えました。キリスト教では、柔和で善良な弱者だけが、神によって救われると信じられています。しかし、ニーチェは、そうした考え方が、ルサンチマンから生まれたのではないかとしました。キリストでは、神に従う善良で従順な人間が「善い」とされます。しかし、それは支配者側のローマ人に対する反対運動にすぎないとしとしました。

 【奴隷道徳】 

 キリスト教は、一般平民の道徳です。そのため、貴族的ではありません。キリスト教では、人間は、神の前で全て平等だとされています。しかし、現実社会の人間は平等ではありませんでした。その矛盾を解決するために作り出されたのが、精神的なもう一つの世界である「天国」だとされています。キリスト教は、肉体「生命」的なものより、精神的なものを重視しました。そのため、現世に対して否定的だとされています。キリスト教徒は、たとえ、現世では支配されていても、精神の世界では優位に立とうとしました。その精神の世界では、民衆が勝利をおさめたとされています。ニーチェは、それを道徳上の一揆と名づけました。その結果生まれのが、キリスト教や民主主義だとされています。

 また、キリスト教は、きわめて禁欲的です。そのため、人間の本能的な部分に否定的だとされています。ニーチェは、それを反自然的だとしました。そもそも、自然というものは、道徳とは関係がありません。ニーチェは、人間の道徳化というのは、健全な生命に対する病気のようなものだと考えました。 



ニーチェの「運命愛」について

2024-03-16 21:21:00 | 西洋哲学

【運命愛】

 運命愛とは、たとえ運命が初めから決まっているものだとしても、別のあり方を望まないことです。もし運命が既に決まっているものだとしたら、人生の選択肢というものはありません。たとえどんな選択をしても、結果が同じになるからです。ニーチェは、世界が永遠に同じことの繰り返しだと考えていました。それを「永遠回帰」と言います。永遠回帰の世界では、決して運命に逆らうことが出来きません。そのため、ニーチェは、世界をニヒリズム的だとしました。ニヒリズムとは、目的がないという意味です。しかし、運命愛では、それをそのまま肯定する立場をとります。なぜなら、運命愛とは、たとえ人生が永遠に同じものだったとしても、それにも関わらず「これが生だったか、よしもう一度」と考えることだからです。ニーチェは、それこそ哲学者が到達しうる最高の状態だとしました。運命愛とは、たとえ、運命が決まったものであったとしても、あえて創造的に生きていこうとすることです。ニーチェは、それこそ、存在との大いなる和解であり、自己を超克することだしました。

 【永劫回帰】 

 永遠回帰とは、永遠に円運動を反復することです。そこに目的はありません。しかし、運命愛では、あえてそれを欲します。円運動には、過程しかありません。その一瞬一瞬は、無限回達成されています。各瞬間は、相関関係にある特定の位置でしかありません。永遠回帰で生起する全行程は、常に同じ順序に従っています。また、その行程は、経過し終えることがなく、究極の完成状態というものを持ちません。もしそれがあるのなら、既にその状態は達成されていたはずだからです。ニーチェは、世界には、無際限に新しいものを創る力もないとしています。そのため、永遠に同じものを創らざるを得ないのだとしました。また、存在しているのは、ただ一つのだけのこの世界だとしています。 その総体的歩みには、何一つ孤立しているものがありません。

 【力への意志】 

 ニーチェは、この世界の実体をエネルギーのようなものだと考えました。物理学のエネルギーは、いろいろ姿を変えても、その全体の量は恒常不変です。それをエネルギー保存の法則と言います。ニーチェは、このエネルギーを「力への意志」という言葉に置き換えました。力への意志は、疲れを知らない力だとされています。それは、凝固停滞することがない変化の形成力です。その力の量は、固定しており、常に一定の量が協働で作用しています。力への意志には、起源がありません。それは、初めも終わりもない一つの巨大な力だとされています。ニーチェは、この世界は、それ以外の何ものでもないとしました。

 【ディオニュソス】 

 力への意志は、踊り戯れながら永遠に世界を創造するものだとされています。ニーチェは、それを古代ギリシャの神ディオニュソスに喩えました。ディオニュソスは、舞踏と酒神です。酒神として、陶酔による忘我のうちに根源的な全一者と合一する神だとされています。ディオニュソスは、自身自身も人間となり、個体化の苦悩を体験する神でした。人間というものは、個体化によって束縛されています。それを解放する者が、ディオニュソスでした。ディオニュソスは、死んで蘇る神です。そのため、永遠に破壊と再生を繰り返しているとされています。ディオニュソスだけは、変転する世界にあっても、変わることがありませんでした。ニーチェは、世界の無尽蔵な創造力を「生」に喩えました。ディオニュソスとは、その生の象徴です。



リオタールの「ポストモダンの条件」

2024-03-15 19:25:00 | 西洋哲学

【大きな物語】
 リオタールは「ポストモダンの条件」という著者で「大きな物語」という概念を提示しました。大きな物語は、リオタールの造語で「メタ物語」とも言います。物語とは、人々に要約して語るという意味です。これまでは、大きな物語が世の中に広められ、それが人々の思考を支配してきました。我々が現実世界だと思っているこの世界も、実は大きな物語が提示してきたものです。しかし、それが本当に正しいとは限りません。大きな物語の具体例は、共産主義や資本主義などのイデオロギーです。また、近代科学や、キリスト教のような宗教も大きな物語の一つとされます。

【同一性の思考】
 大きな物語とは、世界全体を「一つの理論」で解釈しようとする「思想的枠組」のことです。理論というものは、世界を物語として説明しようとします。思想的枠組みとは、世界を意味づける統一的な思考体系のことです。大きな物語は、万人が認めるような真理を普遍的に語ることによって、人々に世界観を提示してきました。人々は、その大きな物語に合意することによって、一つの世界観を共有しています。例えば「歴史」「哲学」「科学」などの正当性は、大きな物語によって維持されてきました。しかし、大きな物語は、同一性の思考であり、それは、例外を認めようとしません。大きな物語の目標は、現状を理想的に変えることです。それが現実社会とはズレていても、その理想を無理矢理、当てはめようとします。その結果生じるのが、基準に当てはまらない例外者の排除です。それが、社会的な差別につながることもありました。

【ポストモダン】
 大きな物語を「モダン」と言います。モダンとは「近代」「現代風」と言う意味です。これまでは、差異を排除し、統一化を求めるモダンの時代でした。それに対して、リオタールが提唱したのが「モダンのあと」を意味するポストモダンです。ポストモダンとは、モダンの脅迫、抑圧的な統一化に対抗する全般的な社会現象のことです。それは、モダンの中にあっても、統一化することを避け、文化や価値観などの多様性を目指します。ポストモダンとは、異文化、多文化を受け入れて社会を差異化する運動のことです。

【小さな物語】
 これまでは「近代理念」という大きな物語が、他の理念に比べて優位に立っていました。近代理念とは、人間理性による諸科学の進歩に、絶代的な信頼をおいた効率性重視の論理です。しかし、現代は、そうした大きな物語に対する不信感が蔓延する時代になりました。現代の知は「専門化」「細分化」が進み、個々が分立している状態です。しかし、それらを統一するような知がありません。そのため、何が本当に正しいのか分かりにくい状況になってきました。今日、大きな物語は終焉しつつあります。モダン「大きな物語」の次に生まれたのがポストモダンの時代です。ポストモダンの物語を「小さな物語」と言います。小さな物語は、個々の具体的な状況での思考です。それは、それぞれの差異を保持したまま、その差異を増加させようとするものでした。


マルクスの上部構造と下部構造

2024-03-14 21:20:00 | 西洋哲学

【下部構造】 

 下部構造とは、社会の基礎となる生産手段のことです。それを「経済機構」と言います。経済機構とは、社会の物質的生活の生産様式のことです。人間は、他人と相互に関係性を築きながら活動しています。マルクスは、人間同士の活動を「交通」と呼びました。その交通をとおした活動が、生活の物質的側面である「経済」です。人間が経済活動をする時、自分の体を動かしてさまざまな労働をしています。例えば、農業をしたり、工場で働くなどです。

 【生産様式】 

 人間は、社会の中で、それぞれの生活手段によって生産活動をしています。マルクスは、その生産の在り方こそが社会全体を決めているのだとしました。その生産の在り方を「生産様式」と言います。マルクスは、社会が上から命令して、生産様式を決めているわけではないとしました。もともと、どのような生産をしていたかによって、どのような社会になるかが決まるからです。生産様式は「人間と自然」「人間と人間」というような二重の関係性によって決定されています。

 【関係主義】 

 社会は、相互の関係性によって成り立っています。下部構造とは、経済的な関係性の総体のことです。それは、さまざまな人間活動の前提条件になっています。下部構造は、客観的な確実性がある自然科学的なものです。マルクスは、人間が、自分の意思だけで、行動を決定出来るわけではないとしました。下部構造が、人間の意識的な部分までも決定しているからです。その意識的な部分を下部構造に対して、上部構造と言います。

 【上部構造】 

 上部組織は、下部構造という土台の上に建てられた、建物のようなものだとされています。それは、肉体物質的な下部構造に対する、人間の精神的な活動のことです。上部構造は、個々人の精神的な生活において、具現化します。マルクスは、上部構造のことを「イデオロギー」と呼びました。イデオロギーとは「社会意識諸形態」と訳される観念形態のことです。マルクスは、イデオロギーという言葉を「思想」「学問」「芸術」などの人間の精神的な活動を説明する時にも使用しました。 

 【イデオロギー】 

 イデオロギーとは、意識の文化的産物です。例えば、資本主義を土台とする経済機構においては、資本主義的な文化が展開されます。上部構造は、その時々の経済体制のたんなる反映にすぎません。基本的に、その国の文化は、下部構造よって変化し規定されるものです。ただし、上部構造が圧力を加え、一部の範囲内ですが、下部組織を反作用的に規定することもあります。また、上部構造は、まず政治や法律などの制度があり、さらにその上に、宗教や道徳といった精神的なものがあるという二重構造です。

 【問題点】 

 イデオロギーの問題点は、現実社会の矛盾や、利害対立を隠蔽してしまうことです。現実の社会とイデオロギーは、必ずしも一致していません。マルクスは、イデオロギーを現実の矛盾点を覆い隠してしまう煙幕のようなものだとしました。たとえ矛盾があっても、無理矢理一つのイデオロギーに当てはめようとするからです。イデオロギーは、人間の思考が生み出した空想の産物にすぎません。しかし、それが自分自身の特殊な利害を社会全体の共通の利害であるかのように思わせることもあります。