独白

全くの独白

介護と云う職種#4(神の領域②)

2017-12-24 15:59:35 | 日記
近頃科学という甚だ人為的なものの極端な蔓延による「神の領域」の侵蝕が始まっているように見える。
此の様な事は「ノアの方舟」や「バベルの塔」に於いて予言されていた。或いは当時既に始まっていた。
併しその「神の領域」が先述の通り、畢竟人間の領域という事に為るならば、此の侵蝕は、そもそも問題として存在し得ない。端から存在しないものが、侵蝕の対象に為る筈は無いからである。
そして例えば総ての生物は、子を待ち望む存在である、と言って良かろう。何らかの理由でかなわなければ、懸命に叶うように努めるものでもある。懸命にと言う事は、その為には何でもするというような意味である。手段を選ばないのである。吾人のように科学という手段を有するなら、科学に頼るのは当然である。
好むと好まざるとに関わらず、それが自然界の在りようである。又自然界には流れというものもあり、その流れには抗う事の出来るものとできないものとがある。
吾人の科学への傾倒は、抗い得ない流れに属する。吾人と科学との間には水と低地との間にあるような、本質的な親和性があるからであり、その故にこそ科学はここまで、吾人の間に蔓延したのでもある。
手段を選んで居られない様な局面にあって何らかの手段を見出し得て、その手段が本質的に親和的で凡ゆる局面で依拠しがちなものであれば、或程度の忌まわしさに目を瞑ってそれに頼ろうとする傾向や風潮も又、抗う事のできない流れであるのかも知れない。(続く)

介護という職種#3(神の領域)

2017-12-15 15:51:46 | 日記
神が、人間の認識や解釈の如何と全く無関係に、外界のどこかに実際に居るのか、人間の魂の中に無形のものとしてあるに過ぎないのか、私は知らない。誰しも知るまい。知っていると称する者がいたとしても、その事を私にも他の誰にも認めさせる事はできまい。然れば実質的にはその者も、知らない者の一人に過ぎない。詰まり神がどのようなものであるかを知っている人間は一人もいないと云って良かろう。
換言すれば、神は不可解なものである。
一方例えば梨や愛情は、神程不可解なものでは無い。梨は現実界に在って、触れたり齧ったりする事が出来る。
愛情はそのようなものでは無い。人間の魂の中に無形のものとしてあって、見る事も触れる事も、出来はしない。詰まり人間の魂と密接な関係にあるというも愚か、不可分でさえある。
然ればとて、梨の存在が人間の魂と全く無関係であるという事にはならない。寧ろ梨が梨として現実界に存在し得る為に、人間の魂という媒介は不可欠である。
その点で、梨も愛情と変わるところは無い。不可解なもの、神も同様である。
神が梨の様なものであれ、愛情の様なものであれ、人間の魂と云う媒介無しに、神というものである事はあり得ない。そういう意味で、梨も愛情も神も、換言すれば凡ての事物は、人間の魂の産物であるという事が出来よう。
凡ての事物の中には、所謂神の領域という事物も含まれる。即ち、神の領域も又人間の魂の産物である。
端的に言うなら、神の領域も人間の領域である、という事に成る。(続く)

介護と言う職種#2

2017-12-06 15:31:43 | 日記
併しそのように、人としては例外的で、寧ろ天上的である人と雖も凡ゆる局面でそうであったとは思われない。そのような人も飽迄人間に過ぎないのであって、天上の人では無いのであるから。
何でも区別し、差別し、分別したがるように出来上がってしまっているのが人間というものである。山に登っても、一息吐きながら景色に感動する間も有らばこそ、山座同定をし始めずには居られない。
又例えば、「職業にも人間にも、貴賤は無い」と思ってしまえば話が簡単に付くところを、「どちらにも貴賤は在る」と思ってしまう事で、複雑にしたがる。
前述(#1-6/19-)の四つの言表は、この「どちらにも貴賤はある」という、要約してしまえば同じ一つの事を、言っているに過ぎない。
それなのに立場に依って異なる四つの言表を、捻り出さざるを得なくしている元凶はと言えば、吾人の本性たる選別癖の他にあるまい。
ところで神話に登場する神々は、天上の住人であっても存外人間的である。
地上の生物に対しては良くも悪くも十把一絡げの扱いや解釈をして置きながら、自分達同士では、地上の俗物同様に慾深で不平等で、それらの為に右往左往させられているのは面白い。
畢竟神も、人間の魂の産物なのであって、当然の事ではあるが。(続く)