独白

全くの独白

好日の自己嫌悪

2018-06-25 02:28:40 | 日記
 今日は四時に起きた。八時迄に小学校へ行かなければならないからである。
早朝からの行事というのは概ね忙しく、始まってしまうと廁へ行く暇も無い事が多い。忙しいからこそ、早朝に始めるのである。無理もない。
併し私のようにデリケートである身体の持ち主が、安定的にそんな忙しない活動に勤しめるようになる迄には、起きてから四時間程は必要なのである。
 田舎の町内会と云うのは、遣る事が多過ぎる。大都会の町内会は知らない。殆ど何にも出る事無く済んだからである。
私は人中に出るのが苦手であり、水は不味かったが、そういうところには助けられた。今の所に越してからは真逆である。
剰え世帯の少ないうちの町会では、誰もが何かの役目を負う必要がある。
 引っ越し先を物色する時なかなか町会の規模に迄は、気が回らない。もっと大切な事でも見落とすものである。
 そんな訳で子も孫も持たない私等も、ノコノコ学校等に出掛けて行く仕儀となってしまって居る。
 今更ぼやいても始まらない。空には雲らしい雲も無いのだけを幸いに自転車を駆ったが、高過ぎる気温が寝不足でぼやけた頭を苦しめ、厭な予感も微かにはした。
 今日の行事は遊戯会である。
私のように世話をする者も、集まって来る二百人程の児童もその親も殆ど女性で、男性は数える程である。然も小学生の親であり若い。
華やいだ、私のような女性崇拝者には願っても無い環境の整って来るに連れて、目も覚めてきた。
 私達は十人程で、五つの遊戯のうちの一つを管掌する。試しに遣ってみると、単純ではあるが意外に難しい。時間は短い。三十秒の練習と一分の本番である。
順番待ちをしている子達を、五人ずつ席に就かせて進める。私は計時係で、ストップウォッチからは目を離せないが、淡々と流れ作業が進んで行く。
 併し慣れは弛緩を呼ぶ。
 本番を勘違いで、三十秒で止めてしまったのである。練習の後と本番の後とでは、五人の記録係の遣る事が違うので、止めてすぐに気付いたが、流れ作業は止め難いものである。異を唱える子の居ないのを良い事に、其の儘交替させてしまった。ところが席を立った五人の中に、偶大人が一人いて、その目が「短かったぞ!」と云っている。
 その女性には見覚えがあった。教師であるらしく開会式の前から、教え子や自身の娘と、熱心に遊んでいる姿が印象的であった。
しくじった後にも何度か擦れ違ったが、心做しかその眼差しは非難がましかった。当然である。
遣ってみたので短い遊戯と雖も、上手く行けば大人でも達成感の有るのも解る。閉会式では結果発表も表彰式もあり、細やか乍ら賞品も出るし賞賛も浴びられる。それらの対象に、あの五人の中の誰かが入って居たかも知れない。その総てを得る機会を、この私が奪ってしまったのかも知れないのである。
 そういう想像は彼女だけでは無く、私自身をも不快にし、長い事立ち直らせてはくれなかった。と云うと聞こえが良い。
 併し実は私を打ちのめしたのは、彼等の不条理な不運への同情の嘆きにとどまらない。
 私はあの事で、人間には思い掛けない瞬間に素顔を曝け出してしまう羽目に陥ってしまう事態と云うものがあり、それを免れる術は何人にも決して無いと云う事を思い知らせられもしたのである。
 而してあの時炙り出されて私自身の眼前にも明らかに突き付けられた私の本性は、臭いものに蓋を、醜悪なものは見て見ぬ振りをし、ただ安閑として易きに流れようとするばかりの、姑息さであった。
 此の思念は先の同情的後悔と相俟って長い時間私の裡に蟠り、糖尿病者にとって掛け替えの無い楽しみである食事をさえ、夢現で摂らせる事に成った。
 漸く我に返ったのは、午睡から覚めて寝不足の解消された時であった。