民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。(ルカ23:35~37)
十字架上のイエスを礼拝したのは、十字架に掛けられていた一人の死刑囚だけであった。みなキリストをあざけり、試して、十字架から降りてくる奇跡を見物しようとしていた。神なら十字架に処せられることなど、ありえないことだからである。
十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。
ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」(39~41)
彼だけが「悪いことは何もしなかった神」だと、十字架に在るイエスを信じていたのだ。同じ刑を受けていても、まったく立場の違う無実の神であると証言もした。
宮殿の玉座に在れば誰であっても、ひれ伏すことができる。しかし、十字架上のキリストを礼拝する者は、彼の他にはいなかった。
心に染みるメッセージを聴いている時ではなく、5,000人にパンを与えている時ではなく、病人を癒して居られる姿でもなく、無力に十字架に掛けられているイエスを彼は礼拝したのだ。
そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」(42)
死刑囚の祈りが、即座にイエスに届いて受け入れられたのだ。
良い働きをしたのではない。悔い改めの実を結んだわけでもない。しかし、彼は最短距離でパラダイスに迎えられた。
ほとんどの人が否定して嘲っているイエスを、彼は神と悟って礼拝したからである。わんわんと怒号と嘲りのあふれる不信仰の真ん中で、肉を裂く苦痛によって罪の代価を支払いつつも、否定する仲間を諫め、周りに逆らってひとり十字架のイエスを、神として礼拝したからである。
イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(43)