石ころ

世の十字架



 「自分の十字架を負う」と言うことに置いて主は甘い。
それは世の十字架ではない。自分の不幸や病を負うことではない。そんなものはすでに主が十字架で負っくださったことによって解決済みである。それらは主を証しするためのネタに過ぎない。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。(イザヤ53:4)

 それらの悩みが付きまとうのは「信じます。私の不信仰をお赦しください。」と叫ばないからである。
そうするなら主はそれを「あなたの信仰」と言ってくださる。「不信仰さえも赦し、関係を回復してくださるお方である」という信仰を、主が受け取ってくださるからである。

そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われた。すると、彼らの目があいた。(マタイ9:29~30)

すべては私たちの信仰によって選び取ることである。
イエスさまに付いて行く私たちの十字架は、イエスさまの十字架に似ていのちに満ちているはずである。
目の当たりしている不信仰の中で、なを彼らと共に永遠の希望を掲げて生きることだから・・。

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