石ころ

日曜日にはイエス様のお話を聞く 2007.9.2


saltさんのメッセージ「走るべき行程」 使徒20

 今日は「走るべき行程」というタイトルをつけました。
 世界陸上の影響も少しはあるかも知れません。私はスポーツが好きなので、ついつい気になってチェックしていました。

 同じ競技でも、スタートラインに並んだ時点で、その種目ごとに体型まで違います。短距離には短距離の、長距離には長距離の適正やトレーニングの仕方や戦術があります。実力だけでなく、本人の体調や心理状態、天候や会場のコンディションも影響しますし、レースそのもののさまざまな駆け引きが勝敗を分けます。

そして、アスリート達は一秒でも早くゴールするために、日々の厳しい練習に耐え、レースに全神経を集中します。その真剣な姿が、見る者を引きつけるのです。素人がたとえ同じ距離を、おなかをたぷたぷさせて走っても、誰も感動など覚えないでしょう。やはり鍛え抜いた人たちが、与えられた力を極限まで発揮する姿が、人の心を動かすのです。

 使徒の働きの9章以降は、パウロに関する記事が大半を占めます。読み手もついついパウロの旅路に同行するような気持ちで読み進んでしまいます。パウロの超人的な働きの背景には、もちろん彼の個人的な能力の高さや、特別に与えられた役割があります。しかしながら、何度も繰り返し言っているように、それは主がともにおられたからこそ成し得たことであり、多くの不思議やしるしも主がパウロを通して行われたことでした。

 そして、私たちが一番心を動かされるのは、パウロの賜物や働きの大きさではありません。私たちがパウロにひかれるのは、その真摯な信仰の姿勢や、イエスさまに対する愛に対してではないでしょうか。パウロは自分に与えられたものすべてを使い尽くすように、限界まで努力奮闘しました。それは世界の頂点を競い合うアスリートの姿とも似ているのです。

 パウロ自身はこのように語っています。
「肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばです。私たちはそのために労し、また苦心しているのです。それは、すべての人々、ことに信じる人々の救い主である、生ける神に望みを置いているからです。」(Ⅰテモテ4:8~10)
 
 パウロが目指したものは、肉体の鍛錬以上のものでした。パウロは体を鍛えることが無益だと言っているのではなく、もっと有益なものを追求せよと勧めているのです。それは生ける神にのみ望みを置き、キリストのために労することです。

 アスリートたちが、五体満足、意気軒昂に実力を競い合えること自体が、大きな神様の恵みなわけですが、私たちもキリストの苦しみを賜ったことは恵みなのです。彼らは非常に努力しています。同じように、私たちにも努力が必要です。それは、名を上げ、自分の栄光を求める肉の努力ではありません。神の御名があがめられることを求め、神の栄光を求めるあゆみです。

 さらにパウロは、「私がキリストを見習うように見習って欲しい」(Ⅰコリント11:1)と語っていますが、まさに私たちが学ぶべきポイントはそこにあります。呪術師がパウロのわざや権威をまねたように、うわべだけを見ていい格好をしたい人はたくさん居ますが、私たちが見習うべきことはそんなことではないのです。

 パウロが此処で語っている「走るべき行程」とは、単に伝道旅行のことではなく、「主に委ねられたことの全体」を指しています、パウロはそれを全うできたかどうかを自問しているわけです。

 パウロはダマスコの途上で、よみがえられたイエスさまに出会うまでは、それこそ、レース場を全速力で逆走するような、あるいは、レースそのものを妨害するような生き方をしていました。信仰がなければ、この競技場も見えないし、競技のルールもわからないし、その戦いの意味も、それによってもたらされる栄誉も分かりません。この世の人には、私たちが何を礼拝し、何のために生きているのかわからないのです。


 みなさんに聞きます。あなたは何を主に委ねられましたか。あなたのレースはどんなレースですか。また、自分はアスリートであるという自覚があるでしょうか。残念ながら、そんな自覚の乏しい方や備えやトレーニング不足の方も多いのではないかと思います。それでは駄目なんです。

 勿論パウロは「特別な人」ですが、同じように、私たちひとりひとりも「特別な人」です。パウロに彼の「走るべき行程」が備えられていたことは疑う余地がありません。そして、パウロがその行程を忠実に歩んできたことも、「使徒の働き」に見るとおりです。

 私たちはどうでしょうか。私たちには私たちの「走るべき行程」があるのです。もっと責任を明確にするために、「私たち」と言うのはやめて、「私」には「私」の、「あなた」には「あなた」のと言い換えましょう。あなたの行程はあなただけのものであり、そこには責任があります。それは非常に重い責任です。真理は私たちを自由にします。そうです。自由です。この自由ということほど尊い価値は他にありません。私たちは罪の奴隷でした、しかし、今は自由なのです。この空中の権威者の下にいました。しかし、今はキリストの自由を得たのです。自由には責任が伴います。

 パウロはこう言っています。「私はすべての人が受けるさばきについて責任がありません」(使徒20:26)パウロは「すべての人に対して負債を負っている」というふうに考えていました。(ローマ1:14)「福音を伝えることはどうしてもしなければならないことで、それをしなければ災いに遭う」とさえ言っています。(Ⅰコリント9:1~18)このⅠコリント9章では、神の恵みのもとでの人の努力について、さらに、自由について、権利について、誇りについて語っています。

 私たちは、それをどう読めばいいのでしょうか。あなたは、その信仰の道のどのあたりにいて、さしあたっては次に何をすべきなのですか。このⅠコリント9章の後半では、パウロはいみじくも、陸上競技を信仰に喩えて書いています。

 同じ陸上の競技の中でも、マラソンは2時間以上走らないと結果が出ませんが、100メートル走なら10秒と少しで結果が出ます。あなたの参加種目は何ですか。自分が何を主から委ねられ、どのように自分を鍛え、どのような心構えで、日々を過ごすべきなのかという自覚がないのは困ったことです。

 救われた以上、主から「何も委ねられない」ということはありません。いのちが与えられ、家族に加えられたなら、お互いがその中で役割を果たすべきです。言い換えれば信仰に観客は居ないのです。全員がアスリートであり、競技参加者です。しかも、パウロの表現から伺えるのは、タラタラ楽しく走る市民レースではなく、勝利を目指した真剣勝負です。失格は何としても避けたいものです。

 動機付けは何でしょう。世界陸上であれば、自分のため、家族やチームのため、あるいは国家のために走るのでしょう。ある競技では、ケニヤが金・銀・銅と独占して、3人で国旗を揚げながら、走ってういる姿はけっこう胸が熱くなりました。私たちの場合はどうでしょうか。

 「神がご自身の血を持って買い取られた神の教会」(使徒20:28)という教会に支払われた価値の大きさを知ることが原動力になるのです。肉の目で「教会」見ていては、意欲などわかないでしょう。「支払われた代価」を通して教会を見つめるとき、主の愛が私たちを突き抜けて他の兄弟姉妹に及ぶようになるのです。この買い取るというギリシャ語は贖いを意味しています。ただ「買う」のではなく、「獲得する」「自分のものにする」という強い意味があるのです。「買い取られた」は完了形にになっています。継続や繰り返しはないのです。

 それは、ただ一度過去に起こった行為、つまり十字架で流された血潮によって獲得されたのです。(エペソ1:7)

 さらにこのことばの後に続くのは何でしょうか。「・・・を牧させるために、あなたがたを群れの監督としてお立てになったのです。」(使徒20:28)

 その価値ある教会を牧するリーダーをお立てになったのは聖霊です。
 教会における人事を行われるのは聖霊なのです。すべてを導かれるのは、人ではなく聖霊です。パウロは教会における聖霊の主権を宣言した直後に、起こりうる問題についても語っています。
「私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。」(使徒20:29~30)

 これはパウロが聖霊によって知っていた彼らの未来に関する予言でした。パウロはその危険を承知していたので、涙とともにひとりひとりを訓戒してきたのです。
 そのエッセンスが32節です。
「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」

 みことばが、私たちを育成するのです。みことばが御国を継がせるのです。みことばが私たちの唯一の武器です。
 やり投げの選手が槍を持たずに競技に参加できますか。ハンマー投げの選手がハンマーを持たずに競技に参加できますか。クリスチャンがみことばなしで、どうやって競技で戦うのですか。

 みことばに養われていない人は、何年教会に集まっていても、洗礼を受けていても、失格者であり、公式記録なしです。

 今日のメッセージを、決して人間的にとらえないでください。もう一度ご自分でみことばを読み、主から直接教えられてください。それぞれに必要な語りかけをお聞きになると思います。

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コメント一覧

石ころ
励ましてくださって感謝いたします
Koji様コメントを感謝いたします。
これは、saltさんから頂いた原稿をそのまま入力しただけです。
でも、この作業でみことばを反芻することが出来てとても感謝です。これは自分のためにしているようなものです。
年をとっていることもあって、すぐに忘れてしまいますから・・。自分のものにするには、繰り返す事が私には必要なのです。

「みことばは縛られていませんね。」
本当にそうだと思います。御霊の自由の中でみことばを理解し、表現することが出来ることはすばらしいことだと思います。

学歴も年齢も問われませんから・・。
Koji
石ころさんのブログに感謝。
昨日、聴いたメッセージを、こちらで再確認して心に落とし込むのに助けられています。それと、同じところでも違うように受け止めておられるのがとても新鮮です。これも、醍醐味ですね。ブログも使いようですね。

御言葉は、縛られてはいませんね。本当に。

感謝
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