石ころ

愛された者

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そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」
すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」(マタイ27:24~25)

群衆はこう答えた。

「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。
彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」(マタイ27:42~43)

祭司長や律法学者、長老たちもこう言った。

人には、この罪深さをわきまえることはできない。善悪知識の木の実を食べた人類は、真に悔い改めることなんか出来ない・・。悔いることがあっても改める力がないのである。それらしい妥協の産物ならあるけれど・・。

「私は言っていない」って言うことができるだろうか。「神なら私を救え」って、心の底で叫んだ日はなかっただろうか・・「私に見せよ」と・・

屈辱の十字架から降りなかった神の御子により、今、救いを頂いている私たち。人はイエスさまのを殺した返り血によって罪を洗われたのだ。神の御前に出ることを赦された私たちは、そのようにして救われた者である。

至聖所で神と人を隔てていた幕は、十字架を経て上から切り落とされたように、一方的な神の備えによってのみ、私たちは「アバ父」と創造主を呼ぶ者としてくださった。今、すべての罪を覆って神の家族に迎え入れてくださっている。

何のわきまえもなく、実になんのわきまえもない者が、十字架の完璧なあがないによって赦された。アガペーの愛は受けるだけである。愛されるとはこういうことであった。

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