石ころ

命乞い

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 礼拝後、気が緩んだとたんにしんどくなって、頭の痛みと体のだるさに参っていたのだけれど、帰宅後飲んだルル3錠ですっかり楽になった。昔々から風邪気味の時はこれで直している。

宵になって、外の涼しい風に誘われて久しぶりに散歩に出た。誰も見えない道の向こうには、まだ夕焼け雲が光っていた。
久しぶりに歩くのでどうかな・・って思っていたけれど、案外スタスタと気持ちよく歩けた。
静かな道を主と並んで歩いているような・・そんな心持ちで歩を進めつつ・・みことばに思いを巡らせた。

 外に出たのには理由がある。ひとりになって主に静まりたかったから・・。
今日のメッセージ箇所はⅡ列王記20:1からだった。ヒゼキヤ王の命が15年伸ばされた箇所。

私たちはなんでも主に願うことが出来る。もちろんなんでも叶えられるというほど主は意地悪ではないけれど・・。しかし、ねだったものがすべて益になるとは限らず、罠になることがあるってことを今日は学んだ。

 病気のヒゼキヤに、神さまは「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。」と言われたとき、彼はそれまでのすべての良い行いを述べたてて命乞いをした。確かに彼は主の前に良い行いをしてきた王であったのだけれど・・。

ヒゼキヤのすべての良い行いも、主が彼と共に居て守られたことであった。(19:31~33)に書かれている。
だから、それは彼の力に拠るのではないことがわかる。人は良いことをすると考え違いをする。「私が、私のこの力でがんばったのだ」と・・。

しかし、良いことはすべて主から出ているのであって、主の忍耐と憐れみ拠って、共に居て導き、それを成させてくださったに過ぎない。
深い感謝があるのみ何一つ誇るべきではない。まして、そのことをとって神さまと取引しようなどとは恐るべきことだと私は思う。

「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす。三日目には、あなたは主の宮に上る。
わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加えよう。わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、わたしのために、また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守る。」(Ⅱ列王記20:5)

神のことばをダビデを通して聞いたとき、彼はみ言葉をそのまま信じることなく、いやしのしるしを求めた。主は忍耐をもって彼にしるしを与え癒された。

 此処まで彼は神さまのことばによって誤りのない生き方をしてきたのだけれど、此処でその絆は切れてしまったように思う。
しるしによらなければ信じないなら、ことばは力を失ってしまうから・・。

人は、神さまのことばがなるくなると、必ず人の言葉により頼むようになる。ヒゼキヤもバビロンの王のお見舞いに飛びついてしまい、心を許して先祖たちが蓄えてきた国の宝のすべてを見せびらかしてしまった。

 彼が、主に懇願して得た15年の間にしたことは、家を将来に向けて整理することではなく、家を滅ぼす備えをすることとなってしまった。
息子が宦官として連れ去られるという預言にも、自分の身にひとときが与えられたことを喜び、どこまでも自分のいのち、世に対する執着があって悲しい。

本当に、人は必ず死ぬものである、「何時死ぬか」よりも「どのように死ぬか」の方が遙かに大切である。
死の淵には、その人の信じてきたものが何であるかが露わになるのだろう。
「主は与え、主はとられる。主の御名はほむべきかな」キリスト者はこのように御国に帰る者である。その信仰を主に願おう・・。

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