あなたがたが交わりのいけにえを主に献げるときは、自分が受け入れられるように献げなければならない。
それを献げた日と、その翌日に、それを食べなければならない。三日目まで残ったものは火で焼かなければならない。(5~6)
自分自身を捧げて主の食卓に招かれる。主が喜びの食事を分け与えてくださる宴会である。そう、捧げものを一緒に味合わせて、一緒に楽しもうと招いてくださるのである。健やかな成長のために・・。
宴会は喜びに満ち溢れてあまりにも嬉しいので、差し出されたものは夢中になって平らげるだろう。
しかし、その食卓に「ちょっと待てよ」という隙間風が入ると、親密な関係が一瞬にして醒めてしまうのだ。
神はイスラエルの子らのおもだった者たちに、手を下されなかった。彼らは神ご自身を見て、 食べたり飲んだりした。(出エジプト24:9.11)
「神を見るものは死ぬ」といわれたが、モーセと共に山に登った七十人の長老たちは、神を見て幼子のように宴会を楽しんだのである。彼らはなぜ警戒しなかったのであろう。ただ、主が共に居て下さることが嬉しかったからである。
もしも、三日目にそれを食べるようなことがあれば、それは不浄なものとなり、受け入れられない。
それを食べる者は咎を負う。主の聖なるものを冒したからである。その人は自分の民から断ち切られる。(7~8)
神は彼らを喜んで受け入れてくださったが、差し出された食事を三日も迷うのは、主にすべてを捧げてはおらず、うちに偶像や自分の計画を隠し持つ二心によって喜べないのである。
「時」は捧げものの中でも、取り返しがつかないほどに重要である。それは心そのものの現れであり、嬉しいことは直ぐに飛びつくものであって、信じられないとぐずぐずと時を稼ぐのである。躊躇は神の愛を跳ね返し、準備された人生の良いご計画を否んで主を悲しませる。
アブラハムも、使徒たちも、パウロも・・信仰の先人たちは常に直ぐに従った。神はその信仰を喜ばれ、彼らの弱さや足りなさを覆って用いられたのである。
救いは瞬時である。キリストの血のような光が霊の目を開いたとき、その人のうちでみことばが生きて働き出す。
なのに何を三日も迷うのか・・、なぜ口が開いて食べないのか、なぜ主を知りたいとみことばに飢え渇かないのだろうか。
イエスは彼に言われた。「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません。」(ルカ9:62)
聴き従うのに時を置くことは汚れである。引き留めているものは世のものであり、ためらいは、神の救いと世の価値を天秤に掛る罪である。なぜ罪なのか、神の愛しておられるものが失われるからである。
キリスト者の聖さはキリストの中に在り、神が備えてくださった祝福は、キリストに飛び込んで、永遠を選び取ることにある。
そのときキリスト者は、生きていても、死を通った後も、変わることのない神の家族であり、主と共に生き続ける者である。
神はキリストを見ておられる。それゆえ、キリストの中に在る私たちは完全に聖なのである。
兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(ローマ12:1)