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石ころ

ダイヤモンドとガラス

ダイヤモンドとガラスのほめ言葉は、重なる部分がある「キラキラと光る」「透明な輝き」などなど・・
ダイヤモンドとガラスの誉め言葉が重なるからといって、ダイヤモンドを誉めるときにその言葉を避ける必要はない。同じ言葉であっても、それを本当に知る人には違いは伝わるだろう。また、知らない人であっても、ダイヤモンドを用い続けるなら違いが分かるときが来る。

それを失敗によって傷つけた時、簡単に割れてしまうガラスと、ダイヤなら傷さえつかないだろう。必要に迫られて手放すときもその違いは歴然とするだろう。
信仰も、偽物と本物はとてもよく似ている。
それは当然、そもそも本物に似せて仕組まれているのだから。証もよく似ているのは当然だろう。

どんな陳腐な証の中にも、聖霊の働きによって保証されている本物の証はある。どのグループの証だから本物だというものではないけれど、イエスさまを証するのは聖霊によることなのだから、まるで偽物のように見えても本物は本物である。
ただ、主の事実を述べることによって、救い主を喜ぶことはみこころに叶っているというだけのこと。

その言葉は聖霊ご自身が保証されるものだから、本物かどうかを人が言葉で表すことなど元々できないし、言葉を選んで心配をする必要もない。
人の言葉によって、イエスさまが本物であることを見抜くことなど出来ない。人は始めに、神様に選ばれたことによって主を知ることが出来るのだから。

 
壊れやすくて傷つきやすく、失敗によって簡単に弱さを露呈してしまう、人とはまるでガラスのよう・・。
それでも私は、そんな傷つきやすい人を造られた神様が少し分かってきた様に思う。
完璧にみえる人に出会った時、私はどうしても警戒してしまう。そこに神様の作品としての匂いをかぎ分けることが出来なくて・・。

神様は、その人の弱さを人の前に露呈させられる時、その欠けの部分から砕かれて、完全に砕かれて、新しく造りなおして彼の働きを完成させられる。
イエスさまは、ペテロの「たとえご一緒に死ななければならないとしても・・」という証の言葉を実現して下さった。事実、彼は見事に殉教した。証を実現されるのも主である。

 
「また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。」(マタイ12:32)

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