石ころ

ひたすら考える (ローマ人への手紙)




 自分の弱さや罪に悩むとき、この箇所に戻って、賜った恵みを改めて自分の身の上に味わうことができるのは本当に幸いだ。身に刻み込むように何度も何度も読み返してきた箇所であるし、これからも何度も戻ってくるだろうと思う。

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。(ローマ5:1)

 キリストと神さまとの平和の中に入れられているなら、それは永遠に変わらないのだ。もし変わったと感じるなら、それは自分から出て行ったのである。
神さまとイエス・キリストの関係は、イエスさまは父なる神さまに拠らずにご自分で判断なさることはない。
私たちは自分に基礎を置いて判断する者であるから、その時神の平和を失うのである。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:8)

 私たちに対する神さまの愛が完全であることは、十字架によって証明されている。このことによって、私たちは完全な愛をもって愛されている事を知って居るのだから、その愛に留まって平和を享受することができるはずであるが・・、
 
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。(ローマ7:24~8:2)


 神さまの深い愛と導きを知ってなを、私は内にある罪性に悩むことになるのだけれど、それは本当に神さまに責められていることなのだろうか・・。そう思うなら、私は神さまと御子の交わりから去って行かなければならないのだが・・。

私の罪には、すでに御子による血の代価が支払われており、いのちの御霊の原理により罪と死の原理から解放されていると書いてある。だから、私は責められても嫌われてもないのである。神さまとの平和は依然としてそこにあるのである。
しかしそのことをみことばより確認しなければ、罪によって目がくらまされ、自分の判断を根拠としてしまうのである。

肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。(ローマ8:5)

肉に従う者とは、肉なる自分自身を頼みとすることである。頭の中、心の中で何を頼りとしているのか、それが私たちの信仰の結果として現れる。
御霊にあってひたすら考えるとは、御霊により導かれたみこことばに安息し続けていること。
そのとき神とキリストの平和に居るのであって、このことが信仰生活の基礎でなければ何も出来ないのだ。

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