石ころ

息子の正月 (ダビデとサウル)




 息子は正月は仕事で家に居なかった。この連休が正月休みのようなものであった。ゆっくりと過ごすなかで、ストーブの側で彼の聖書通読箇所を交読しあれこれと語り合った。
彼が遠距離の通勤から解放され、転勤になったことによって時間に余裕ができ、毎朝ゆっくりと聖書が読めるという・・このことは本当に感謝なことだ。

みことばに日々親しむことはキリスト者の食事だと思う。礼拝に出席を欠かさなくても、それがなければ信仰生活はやせ衰えて行くことになる。
みことばは読めば内に蓄えられ信仰の力となるし、主が喜びも発見させてくださるから・・。

 彼は「ダビデがペリシテ人と一緒に行動したことがあったのだね。(Ⅰサムエル29章)驚いたよ。」と言った。
「ああ、そんなことがあったね。でも、結果イスラエルと戦うことがなかったのは良かったね。そもそもこうなったのは、ダビデが神の権威を恐れて、サウルを打つことを避けたからなのだけれど・・」
「でも、ダビデって部下を殺して妻を奪った(Ⅱサムエル11章)こともあるね。ダビデとサウルの罪の重さを比べると、ダビデの方が悪いのじゃないかと思えるけど・・」

「サウルは神の命令をないがしろにし、神に選ばれた自分を小さく見て人を恐れ、罪を犯したでしょ。(Ⅰサムエル15章)」
「でも、良いものを捧げようとしたのだからそれは悪いこととは思えないし、妻を奪うために人を殺す方がよほど悪いと思うけれど・・」

「それが罠。そこが一番大切なところで、人と神を天秤にかけて、神の命令よりも人の命の方が大切だと考えてしまう。信仰はヒューマニズムとは違う。人にとって神の権威を犯すことこそ最も重い罪なのよ。

「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(Ⅰサムエル15:22)

「神は陶器師、人は粘土造られた陶器、支配するのはどちら・・」(エレミヤ18章)
「ああ、イザヤだったかな・・陶器師になんでこんな物を作るのかとか言えようか・・ってあったね。」(イザヤ29:16)
「神は造り主であり人は造られたもの。神は支配する方であり、人は支配されるものである。そのことがよく分かって居ないと、聖書はとんでもない事が書いてあるってことで終わってしまうよ。

神はすべてを支配して居られる中で、ひとり子イエスを人の子としてマリヤのお腹に賜り、人の罪をあがなってくださったから、そのことによって神の愛を私たちは知ることができるし、罪の結果しとての滅びからも救われている。
創造主である神を神として権威を認めないなら、その救いは実を結ばないことになってしまうのだから・・。」

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

彼と祈って聖書を閉じた。彼は仕事のことや家族のことを祈ってくれた。耳の不自由な彼が健常者の職場でやってゆくためには、主の助けがなければとてもやっては行けないのであろう。それこそが祝福なのだと思った。その弱さの中に神の完全な助けがあるのだから。

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