訃報に接すると、私も最後の時について考える年になった。まあ、平均寿命まではまだ20年近くもあるけれど(このことの方がよほど恐いのかもしれない・・)死はこのぼろぼろのあわれな肉体を脱ぐ時にすぎず、「永遠のいのち」という最善の備えはイエス様によって備えられてあるから、死に対して逃げたいような思いはなく、むしろイエス様にお会いできるという期待さえある。それはとても光栄なことで喜びに満ちている。
問題はそこにたどり着くまでの死を越えることの恐れ。何しろ私は痛みに弱い・・・恐がりで検査がすごーく嫌い。恐ろしい検査をされるくらいなら、傷ついた動物のようにじっと丸くなって耐えている方が良い。でも、もうこの年になったら、潔く医学の発展のためにご自由になさって下さいって態度をとるべきなのだろうなぁ・・。
しかし、イエス様は十字架で最も酷い死を経験してくださった。私が例えどんなに辛い死に方をしたとしても、イエス様の苦痛には及ばないだろう。私が例え何処かでひとりぽっちで死ぬことがあっても、イエス様の孤独には遠く及ばないだろう。私がどんなに惨めに死んでも、イエス様が味わってくださった無惨には比べられないだろう。
イエス様がすべてを知って下さっているということは、なんと心強いこと。私は弱い者だけれど・・生きることも死ぬこともイエス様に寄りかかって、平安は去らない。
「私にとっては生きることはキリスト死ぬこともまた益です」
最新の画像もっと見る
最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事