石ころ

霊によって「アッバ、父よ」と呼ぶ




神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。(ローマ8:14~16)

それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。
あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。(ガラテヤ4:6~7)


 子は乳を与えられていることで母を知ることができる。
しかし父は「父ちゃんですよ~」と、教えられなければ知ることができない。知らなければ強い力が恐ろしいだけの存在、一緒にいることさえ苦痛となりかねない。その関係を教えられて受け入れ、安らいで愛を味わう時それは父子の喜びとなるのだ。


 霊の父なる神様も、聖霊に教えられて私たちは「アバ、父(父ちゃん)」と呼ぶことができるのだ。そうして御父の愛に恐れなく浸ることができるのである。
聖霊によって私たちは御父を悟り、その愛に依存する者となり、神様の権威は恐ろしいものではなく、子である私たちの避け所であることを経験して行くことになる。

 聖霊に逆らい冒涜する者が救われないのは、御父もみことばも、聖霊によらなければ受け入れることが出来ないからである。
どれほど聖書を読んでいても、聖霊によって御父と御子と自分自身の関係を真に知ることがなければ、御父の愛に触れる事ができないのである。

そういう人の「神を恐れる」ということは、自分の行いに縛られて主の顔色を伺い、サタンの訴えによって労苦する日々となり、父なる神様に「あなたは恐ろしい方」と言うことになる。
愛するひとり子をたまわるほどに愛してくださっている御父にとって、それはどれほどの悲しみであろうか。
それは、なんと的を外してしまっていることか。


 御父を知るものはその愛を喜びに溢れて語る。安息し信頼しているからである。父の自慢をしている子を憎む親があるだろうか・・。それは正確であるか・・という問題ではなく、愛の問題である。
そのような子が間違いを犯したとき、父は手を取り足を取って教えないだろうか。父は愛の鞭も、導きの杖も持って居られる。

たとえ間違えても失敗しても、変わることのない御父の愛に信頼しており、決して捨てられることがないと知って居るから、喜びに溢れて自由に語るのである。期待に満ちて主を語る言葉は実現する。
「あなたは計算の細かい厳しい方、恐ろしい」と評価した者からはすべてを取り上げられた。
主は私たちの評価に応えられる方だからである。


従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。(ローマ8:1~2)

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