石ころ

二振りの剣 (ルカ22章)




すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。
そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。(マタイ26:51~52)

そこで言われた。「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。
彼らは言った。「主よ。このとおり、ここに剣が二振りあります。」イエスは彼らに、「それで十分。」と言われた。
イエスの回りにいた者たちは、事の成り行きを見て、「主よ。剣で打ちましょうか。」と言った。(ルカ22:52)



 主はなぜ剣を買うように言われたのか、剣を取る者は剣で滅びると言われている。
しかしそれは剣を人を殺す道具とするとき、その剣によって自分も裁かれて滅びるということである。

イエス様が買うように言われた剣は、人殺しの道具ではなくみことばの剣であり生かすことばである。
二蓋振りの剣は、ロゴスとしてのみことばであり、レーマとして生きて働くことばである。

 主は「それで十分」と言われた。他に何も頼るべきではないからである。
イエス様が世から去って行かれるとき、弟子を守るものはイエス様の残された約束のみことばだけである。だから、今まで身を守っていた着物を売ってでも、手に入れて自分を守りなさいといわれる。

それは代価を支払って手に入れるものである。犠牲を払って手に入れるものである。弟子は二振りの剣を持っていた。
彼らは人生のすべてを差し出して、それを買い取っていたのである。

救いは信仰によることであり人の犠牲に拠るのではないけれど、唯一私たちが払うべきものはみことばを求める努力である。
それは生活の中でイエス様を一番に選び取る行いの元となり、唯一私たちのいのちを保証するものだからである。

神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。(ヘブル4:12)

 みことばの剣は切れ味鋭く、人の考えや思いを暴露するものである。それは他人に向けるものではなく自分に適用するべきものであるが、その剣に裂かれて流れる血はイエス様の血であり、罪をあがなう血である。

それを語るとき自他に傷を付けることがある。私たちは間違いを犯す者だが、それを恐れるあまり導かれたみことばを埋めて沈黙するべきではない。
それが純粋なみことばであるなら主は癒しの御手を伸べてくださるから、思い煩うべきではなく、ただ覆ってくださるように御前に伏して祈るのみ。

そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。
そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。(ルカ22:50~51)

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