石ころ

薪を割る(創世記22章)

 

これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。
神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」(1~2)

 

「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを」という言葉は、「これはわたしの愛する子」と神がひとり子イエスを紹介された言葉と重なる。愛する子を捧げる痛みを、もっともよくご存じの神の言葉であった。

 

試練によって神の深みに追い込まれることで、み旨の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、この信頼を増した成長によってこそ、主が備えてくださっている信仰生活が享受できるのである。

 

翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ向かって行った。(3)

 

薪を割る作業は、信仰の動力を得るための時間である。イサクへのもろもろの思いや、自分の恐れを薪を割る作業によって砕いて行く。その作業に集中することによって、一歩を踏み出す力を得て行く。

 

私たちも信仰によって踏み出す第一歩は、それがどんなに大きな賭けに思えることであっても、いつもと同じようにみことばに聴き、主を賛美する時に、そのためのすべての力を得る。

 

三日目に、アブラハムが目を上げると、遠くの方にその場所が見えた。
それで、アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と言った。(4~5)

 

たとえ不安があっても、そんな自分の信仰には拠らず、みことばを高く掲げて歩む時みことばは成就して行く。みことばが神の力だからである。
このことはサタンに勝利を取らせずに、豊かなクリスチャン人生を得るためのコツである。

 

「アブラハムの信仰は素晴らしいが、私にはそのような信仰は無い。」と言ってしまったら、聖書は何の助けにもならない。
自分の信仰を中心してみこころを成すことは、そもそもあり得ないのである。

 

 私たちの目指している所は天の御国であり、それは私たちの目には見えない。もし、見えるものだけを追っているなら、ゴールを見つける日は最後まで来ない。


見えないみことばを、日々の小さな事柄の中で宣言しつつ、生ける神の臨在を経験させて頂いて、その信頼の中で辿り着く天の御国である。


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