石ころ

使徒の働き㉑ (使徒12章)

 

ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。(12)

 

主が解き放ってくださったなら、慌てることも人目を恐れることもない。使徒たちは以前、牢から出て会堂でメッセージをしていたのだ。

 

彼が入口の戸をたたくと、ロダという女中が応対に出て来た。
ところが、ペテロの声だとわかると、喜びのあまり門をあけもしないで、奥へ駆け込み、ペテロが門の外に立っていることをみなに知らせた。
彼らは、「あなたは気が狂っているのだ」と言ったが、彼女はほんとうだと言い張った。そこで彼らは、「それは彼の御使いだ」と言っていた。(13~15)

 

牢に閉じ込められていたペテロも、熱心に祈っていた弟子たちも、私たちも、次に主が用意していてくださっていることが、どんなに素晴らしいことか・・何も知らない。
祈っていながら、主の証を聞いた時には、気が狂っていると思ってしまう、それが人の信仰の程度である。

 

私たちのうちに居られるキリストの信仰に、今日、信頼してみことばに聴き従順するうちに、みこころの歩みを成功させてくださるのだ。
キリストの信仰によって働くべき私たちが不信仰なら、それは行いのない信仰となる。せめてキリストのお邪魔はしたくない。

 

しかし、ペテロはたたき続けていた。彼らが門をあけると、そこにペテロがいたので、非常に驚いた。
しかし彼は、手ぶりで彼らを静かにさせ、主がどのようにして牢から救い出してくださったかを、彼らに話して聞かせた。それから、「このことをヤコブと兄弟たちに知らせてください」と言って、ほかの所へ出て行った。(16~17)

 

ペテロは主がしてくださったことを証して、共に主をほめたたえる喜びを教会にあふれさせて行く。主はそのためにも自由を与えられたからである。
ペテロに起こったことはペテロだけのことではない。

 

主は今も昔も同じ方であり、私たちは聖書の神と共に生きた先人たちに、自分自身をも重ね合わせて、みことばを生きようとする者である。

 

定められた日に、ヘロデは王服を着けて、王座に着き、彼らに向かって演説を始めた。
そこで民衆は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。
するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた。(21~23)


 
おもねる言葉は恐ろしい、その口には死が含まれている。むしろ、中傷されている方がずっといい。その時は主が味方していてくださるからである。

ヘロデのしたい放題の高慢に対しては、神が処罰された。私たちはそのような世と関わる必要はないから、平安に守られているのである。

 

愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」(ローマ12:19)

 

キリスト者は主が命じられた時以外、戦っている必要はなく安息している者である。憎んだり呪ったりする必要もなく、恐れる必要もない。主は生きて居られ、事を成し遂げられるのも主である。

主のみことばは、ますます盛んになり、広まって行った。(24)


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