祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37~38)
「渇いているなら・・」とある。渇かないとイエスさまには行かないのだ。渇かない状態というのがありうるのだろうか・・。
聖さに渇く時、十字架のイエスさまの血潮で洗い清めていただいた。
愛深さに欠ける呻きは、神の愛する力を求めてイエスさまにすがる。
真理への渇きは、みことばに静まり聴き耳を立てる。
罪を示された時は、赦しを乞うてイエスさまに飛び込む。
心が揺れるときは、イエスさまの御名を呼んで平安をたまわる。
イエスさまを告白した者は誰でも聖霊をたまわっている。聖霊はイエスさまが私たちの中にいてくださることを、みことばを通し、また不思議な助けによって示し続けてくださる。
わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。(ヨハネ17:26)
信じた今もイエスさまは叫ばれる。「わたしに来なさい」と、そうすれば日々いのちのことばが、キリスト者の存在そのものから溢れ出るようになる。
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。(ヨハネ6:55)
もし、まことの飲み物ではないもので内を満たしているなら、渇きが感じられずイエスさまに行くことがなくなってしまうのだろう。イエスさまの大声も聞こえなくなってしまうのだろう。
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