石ころ

信じきった人


ルカ1章から
 ザカリヤは御使いガブリエルから、年老いた妻エリサベツに男の子を授かったことを聞いたとき、すぐには信じることが出来ずにしるしを求めた。
その不信仰によりしるしは彼の体に表れ、口が不自由になりものが言えなくなった。

「これらのことが起こる日までは、あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」(ルカ1:20)

しかし、彼の不信仰にもかかわらず、主の約束は実現するのである。なんと感謝なことだろう。そのとき彼の不信仰も癒されるのである。
すべての基礎にあるものは、人の信仰ではなく主の良い計画であった。神さまはどこまでも、人に良きものを準備していてくださるお方なのだ。


 私たちがイエスさまを自由に語れないのは不信仰からなんだって、今日ここの箇所から学んだ。
それは考えてみれば当然で信じ切ってもいないことを、詐欺師でもない者がどの様に語ることができるのか・・ということ。

此処でふっと思い出したみことば、
「私たちは人をだます者のように見えても、真実であり・・」(Ⅱコリント6:8)
信じて話すときにも、だましているように見えるんだ。う~ん・・ただ、主の保証によって語るんだ。どの様に見えようとも・・。


 マリヤは御使いの言葉にひとつの疑問を表した。
そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」(ルカ1:34)

この言葉は不信仰とは違う、単に知識として知っていたことと違うので「?」を言い表しただけである。

「神にとって不可能なことは一つもありません。」(ルカ1:37)

マリヤはこのひとことに「アーメン」と言った。彼女はいいなずけのヨセフに相談をすることを選ばなかった。神さまと自分の間に彼を入れなかった。
神さまが語られるときには、決してそこに人を入れてはならない。それは、神より人の言葉に信頼することを現しているから・・。
彼女は神さまを信じ切ったのだ。

信じ切るということは、「大丈夫。守ってくださるからすべてがうまくいくだろう」と思うことではない。
この主の計画によって、今後自分の身に起こるであろうことのすべてを任せるということである。それは、何も心配しない。何も計画しない。何も責任を持たないということ・・そういう形の死。


主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。

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