よみがえられたイエスさまは、11人の弟子の食卓に現れて彼らの不信仰を責められた。主に責められることには希望がある。
その欠けを主が知っていてくださるということは、私の安心でもある。主は、私たちの欠けを満たしてくださる真実なお方であるから・・。
「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」(ヘブル12:5b~6)
叱責ののちに、全世界への宣教命令を彼らに託されたのであった。このような不信仰の者であることを十分にご存じの主が、この大きな役割を任せ、彼らの働きに必要な主の権威を分け与えられたのであった。
それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。
信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。
信じる人々には次のようなしるしが伴います。
すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコ16:15~18)
今も昔も主は不信仰な者を選び、ご自身でそのことを成し遂げてくださる。此処に遣わされる者の平安がある。
主が命じられる時「アーメン」と答える。その働きをさせてくださるのは主である。成し遂げるために必要な信仰はキリストの信仰に拠る。私たちは終始この方により頼むだけである。
「その後、イエスご自身、彼らによって、きよく、朽ちることのない、永遠の救いのおとずれを、東の果てから、西の果てまで送り届けられた。」(マルコ16:21)
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