弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(ヨハネ9:2~3)
イエスさまに目を開かれて神のわざを現すためには、時々見えたり見えなかったりじゃなく、その人が完全に見えない人であるという事実が必要。そうして、その目に泥を塗って頂くことが必要。
それは誰の目にも彼が今、主に取り扱われているということがわかるためのもの。そうして、彼自身がみことばに従順している事実が、シロアムの池に向かって歩む姿によって見られるため。
すべてが曖昧な状態から、主をはっきりと証ししたり、神のわざがあがめられることはない。
イエスさまのまわりではいつも分裂が起こる。いつもすべてがはっきりとわかれる。信じるのか信じないのか、敵か味方か。
そうして私たちも問われる、目の前の問題に対してみことばに信頼するのか、しないのか。主を頼みとするのか、人間を頼みとするのかと・・。
主の栄光をあらわす者は、彼のようにこの世の言い伝えを完全に打ち破るような主の真実を、真っ直ぐに語って止めない。
それは、人にどのように語ろうか・・というものではなく、いつも誰に向かっても、ただ自分の身に経験した主を語るのである。
「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」
「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」
盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。 もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」
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