生まれつきの盲人はイエスさまにすべてを賭けた。なぜそれができたのか、彼にはそうする以外に、生涯物乞いという生き方から抜け出せなかったからである。
だから、盲人の恥をさらしても、目に泥を塗られてシロアムに向かって歩いた。これが最後のチャンスだと悟ったから。
信仰よりも大切なことがある。それはその人のイエスさまの必要度。イエスさまは必要な者の所に来て下さるお方だから。信仰はイエスさまと歩む中で育てられる。
目が見えるというパリサイ人には、盲人の目が見えた!という事実が見えなかった。目が見えない盲人には、イエスさま以外に救いがないことが見えた。
今すべてが不安な日常の中で、私たちが弱い者であり、明日が見えない者であることを悟ることが、どれほど必要であるかと思う・・。
イエスさまの救いを私の信仰によって呼ぶことなど出来ないけれど、イエスさまを、真に必要としている者の所には来て下さるお方であることを知っている。
今、私たちの弱さが暴露されなければならない。そうでないと主のわざが現れることはないのだから。
弱さが隠されたままで神のわざがなること、それは恐ろしいことである。それは主の栄光を盗むことだから。
「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」
コメント一覧
石ころ
保護者
石ころ
イチゴ
最新の画像もっと見る
最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事