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石ころ

弱さの暴露



生まれつきの盲人はイエスさまにすべてを賭けた。なぜそれができたのか、彼にはそうする以外に、生涯物乞いという生き方から抜け出せなかったからである。

だから、盲人の恥をさらしても、目に泥を塗られてシロアムに向かって歩いた。これが最後のチャンスだと悟ったから。

信仰よりも大切なことがある。それはその人のイエスさまの必要度。イエスさまは必要な者の所に来て下さるお方だから。信仰はイエスさまと歩む中で育てられる。

目が見えるというパリサイ人には、盲人の目が見えた!という事実が見えなかった。目が見えない盲人には、イエスさま以外に救いがないことが見えた。

今すべてが不安な日常の中で、私たちが弱い者であり、明日が見えない者であることを悟ることが、どれほど必要であるかと思う・・。

イエスさまの救いを私の信仰によって呼ぶことなど出来ないけれど、イエスさまを、真に必要としている者の所には来て下さるお方であることを知っている。

今、私たちの弱さが暴露されなければならない。そうでないと主のわざが現れることはないのだから。
弱さが隠されたままで神のわざがなること、それは恐ろしいことである。それは主の栄光を盗むことだから。

「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」

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コメント一覧

石ころ
保護者さんへ
きちんと整理して下さってありがとうございます。

「主を愛する者たちが、主の御心にそって自分の体を差し出すことができるように導かれますように。」
アーメン、アーメン
保護者
「・・私も彼らの内にいるようになるためです。」(ヨハネ17-26)
イエスの祈りの最後の言葉です。
主を慕い求め 主に対して扉を開くなら中に入って来て下さいます。
そして、「その人に私自身を現します。」(ヨハネ14-21)と約束されておりますから、私達の内でイエス・キリストが形造られていき、この体を通して主の栄光が現れるようになっていくのですね。
主を愛する者たちが、主の御心にそって自分の体を差し出すことができるように導かれますように。
石ころ
イチゴさんへ
「すべての事象を聖書に照らすと 次第に話が出来なくなります」
アーメン

それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、
主を知る知識と主を恐れる霊である。

この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、
その耳の聞くところによって判決を下さず、

正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、
口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。

正義はその腰の帯となり、
真実はその胴の帯となる。
イザヤ11:2~5
イチゴ
「信仰よりも大切なことがある。それはその人のイエスさまの必要度」
アーメン 
その必要度を数値で表すなら 100パーセントの瞬間が必要だと思う 
私も昔 長いこと 30パーセントぐらいをウロツイテいましたから
だって 人はこの体に優れた様々な機能を持っているのです 神が創った素晴らしい賜物を持たされている なかなか持ち物 特に心が「ゼロ」にはならないのです

イエスさまを、真に必要としている者の所には来て下さるお方であることを知っている。
アーメン

100か ゼロか 時々 そこに留まってる自分を 遠くから「極端だ」と畏れる目で見てしまいます
自分や家族のことならまだしも すべての事象を聖書に照らすと 次第に話が出来なくなります

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