石ころ

ユダと滅び

 

「御前にひれ伏すのに遅すぎることはない」と書いていたことが、ユダの滅びと重なって心に残っていたとき、キリストの十字架のことばをはっきりと思い出した。

 

「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)

 

イエスの十字架がすべての罪を贖うためのものであったように、キリストが命を捧げて祈られた祈りが、ご自分を殺している者のためだけではなく、ユダを含む全人類の過去、現在、未来に至る罪の執り成しであった。

 

それほどに神の御子イエス・キリストが十字架で死ぬということの効力は、人類の罪をあがなって完全なものであり、完成されたものなのだ。

ユダは、イエスが捕らえれて十字架刑に定められた時、初めて自分の罪の大きさに気づいた。彼はそのとき戻るべきイエスを失っており、身を寄せた宗教家に罪を告白をしたのである。一体誰が神に犯した罪を赦す権威を持っているだろう。

 

「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」しかし、彼らは言った。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」(マタイ27:4)

 

宗教家から「罪は許される」と慰められたところで、その言葉に何の権威があるだろう。そのことばは唯一キリストから聴くべき言葉なのである。しかし、ユダはその方を売っていた。

 

創造主が準備してくださった救いを失うのは、キリストを信じるチャンスを売り払って、世のものに代えて身を寄せたからである。
キリストが十字架で宣言してくださった執り成しを、目に見えるものに縛られて無視するなら、それはユダの自死のようなものである。

 

御前にひれ伏すのに遅すぎることはないけれど、ユダがキリストだけではなく、自分をも殺す結果に至ったように、悪魔の働きに操られる人の肉性は、救いに導く神の霊に逆らう力をもっているのだ。

 

アダムが食べた善悪知識の木の実から得た賢さによって、人類は神に逆らうあらゆる理屈を身に付けて来た。しかし、救いに至る知識は幼子の素直さであるとイエスは言われた。

 

「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。

 

悪魔は諸々のことを用いて、人の感情を掻き立てみことばに反抗させる。初めに神が選んでくださった救いに拠らなければ、罪を持っているゆえに誰も救われない。聖霊の臨在の中で、自力では生きられないまでに追い詰められて、御名を叫ぶに至る者は幸いである。

 

そのとき誰が「神に選ばれていない」などと言えるのか・・、その言葉を耳にささやくのは十字架のキリストではない。

天地を創造された神であるキリストが、無実の罪で死刑となるほどに無力になり、身代わりの十字架刑によって、永遠の滅びに至る死を解決してくださった。

 

そうして、キリストを信じる者を神の子とし、神と共に生きるいのちをプレゼントしてくださったのである。このことはキリストがすべて成し遂げてくださったことであり、人は受けるだけの完全な恵みなのである。

 

ユダにはなるまじ。生きている人は誰でも、罪の赦しと、神の子のきよさと、永遠のいのちをいただくことが出来る。キリストの御前に、幼子の真っ直ぐな心さえあれば・・。


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