石ころ

鎌を使ってはならない(申命記23章)

 

隣人のぶどう畑に入ったとき、あなたは思う存分、満ち足りるまでぶどうを食べてもよいが、あなたのかごに入れてはならない。
隣人の麦畑の中に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑で鎌を使ってはならない。(24~25)

 

神が造られた腹には限りがあるが、かごは限りなく大きくなり貪欲には限りがない。そこには幾ら取っても神にも隣人にも、満ち足りる感謝は無い。

 

すべての道具には用い方があり、人の益にもなれば人を滅ぼすものともなる。何処でどのように用いるか、鎌から兵器まで作り出す人に在っては、どれほどに心しなければならないことであろう。

 

欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。(ヤコブ1:15)

ユダはキリストの豊かな養いの中にありながら、御許にあってみことばを聴いて養われることは無く、彼の心は握った財布に釘付けられて中身を掠め取り、それを咎めないイエスを軽んじたのである。

 

彼(ユダ)がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。(ヨハネ12:6)

 

命をたまわるほどの方であれば、財布をユダに渡したときから、欲しければ自由にせよとのキリストの御心を彼は悟らず、キリストを売るほとの欲は膨らんで行ったのである。

 

イエスは彼に「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」と言われた。そのとき人々は近寄り、イエスに手をかけて捕らえた。(マタイ26:50)

 

彼はキリストを侮ったことで、近しく居ながら神の愛に気づくことは無く、ギリギリ最後に呼びかけられた「友よ」という言葉に反応することも無く、サタンに使われるままに、最悪の役割を負うのである。

 

誰でも、どんな時でも、御前に平伏す時が遅すぎるということは決してない。そのチャンスは主が備えてくださったからである。しかし、ユダは最初から最後まで自分の計画を行った。

 

主を知ることの渇きは満たされていのちに至るが、世のものに渇く心は、イエスに「友よ」と呼ばれても、罪を恥じて御前にくずおれる脆さを失い、その霊の鈍感さは主を知ることが無い。

 

へりくだりと、主を恐れることの報いは、富と誉れといのち。(箴言22:4)


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事