隣人のぶどう畑に入ったとき、あなたは思う存分、満ち足りるまでぶどうを食べてもよいが、あなたのかごに入れてはならない。
隣人の麦畑の中に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑で鎌を使ってはならない。(24~25)
神が造られた腹には限りがあるが、かごは限りなく大きくなり貪欲には限りがない。そこには幾ら取っても神にも隣人にも、満ち足りる感謝は無い。
すべての道具には用い方があり、人の益にもなれば人を滅ぼすものともなる。何処でどのように用いるか、鎌から兵器まで作り出す人に在っては、どれほどに心しなければならないことであろう。
欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。(ヤコブ1:15)
ユダはキリストの豊かな養いの中にありながら、御許にあってみことばを聴いて養われることは無く、彼の心は握った財布に釘付けられて中身を掠め取り、それを咎めないイエスを軽んじたのである。
彼(ユダ)がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。(ヨハネ12:6)
命をたまわるほどの方であれば、財布をユダに渡したときから、欲しければ自由にせよとのキリストの御心を彼は悟らず、キリストを売るほとの欲は膨らんで行ったのである。
イエスは彼に「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」と言われた。そのとき人々は近寄り、イエスに手をかけて捕らえた。(マタイ26:50)
彼はキリストを侮ったことで、近しく居ながら神の愛に気づくことは無く、ギリギリ最後に呼びかけられた「友よ」という言葉に反応することも無く、サタンに使われるままに、最悪の役割を負うのである。
誰でも、どんな時でも、御前に平伏す時が遅すぎるということは決してない。そのチャンスは主が備えてくださったからである。しかし、ユダは最初から最後まで自分の計画を行った。
主を知ることの渇きは満たされていのちに至るが、世のものに渇く心は、イエスに「友よ」と呼ばれても、罪を恥じて御前にくずおれる脆さを失い、その霊の鈍感さは主を知ることが無い。
へりくだりと、主を恐れることの報いは、富と誉れといのち。(箴言22:4)