石ころ

彼はキリスト者なのか

 

イエスさまは、御自身を売り渡すことをご存じでユダを弟子として選ばれた、また、弱さから三度イエスさまを「知らない」と言うペテロを選ばれた。キリスト者を迫害していたパウロを選ばれた。
イエスさまは罪人を選び御自身の側に置かれた。使徒も弟子も罪人である。


イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)


ペテロは三度イエスさまを知らないと言った後で、イエスさまの視線を感じて泣き崩れ 救われた。彼はよみがえりのイエスさまを待って、教会を建て上げる使命をたまわり全うして殉教した。


パウロはイエスさまに出会った時、イエスさまの栄光によって目が見えなくなった。イエスさまのお言葉に従って目からウロコが落ちたとき、彼はみことばを世界に伝える者とされ、多くの苦難の中でその役割を全うして殉教した。


ユダはイエスさまを銀貨三十枚で売った。彼らがイエスさまを捕らえに行った時、イエスさまはユダに「友よ」と呼ばれた。
ペテロのように悔いてくずおれるチャンスを与えられたが、ユダはイエスさまに立ち返ることはなく、銀貨を選んで滅んだ。


キリスト者は、何時でも悔い改めて御前にひれ伏すことができる者である。ユダは神に選ばれ者なのにキリスト者とはならなかった。
主は人に自由を与えておられる。その自由の中で選びを受け入れ、感謝の中でキリストを愛し、似た者とされて行くことはキリスト者の価値である。


イエスさまは罪人を選んでくださり、願う者を十字架の血潮に洗って、聖く傷のない御自身に似た者としてくださる。
ペテロは弱さを持っていたがイエスさまを終生愛していた。主は彼の願いを叶えられた。パウロは義に渇いていた。主は彼の目を開いて真理を見せ、神の義とその備えである福音を伝え続けさせてくださった。
主は、誰にもその願うものを与えてくださる。ユダにもそうだった。


キリスト者は豹変するものである。パウロは一夜にして180度変わり、攻撃していた福音を堂々と語り出した。
ペテロはキリスト者である故に押し込められた牢で、手足を鎖に繋がれ明日の処刑を待つ間も熟睡していた。


しかし、ユダもキリスト者に数えられることがあるだろう。師である神のキリストを売るという彼以上の罪を犯した者は無いが・・。
誰がキリスト者なのか、イエスさまはユダにさえ、最後の最後までキリストに留まらせようと時を用意された。


イエスさまが来る者を拒まれたことはなく、弟子を破門された記事もない。救いを求めるすべての者に
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい、今からは決して罪を犯してはなりません。」と言ってくださる。
それは、十字架でその罪を負ってくださるからこその言葉である。時間に縛られることのない神のわざによって、時を遡って・・。


だから、誰もキリスト者を罪に定めることは出来ない。私たちはその人とイエスさまの間にある最後の時を知らないからである。
ただ、神さまが御子を世におくり、信じるすべての人の罪をあがなってくださったのは、神の御名があがめられるためである。だから、ユダにはなるまじ!
ただ、「御名があがめられますように」と祈り続ける者である。


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