それから、私たちは向きを変え、主が私に告げられたように葦の海の道を荒野に向かって旅立ち、長らくセイル山の周りを移動していた。(1)
不信仰の結果である荒野を彷徨うような遊牧生活から、祝福の地へと向きを変えるように主は命じられた。
「あなたがたは長い間この山の周りを移動してきたが、北の方に向きを変えよ。
民に命じて言え。あなたがたは、セイルに住んでいるエサウの子ら、あなたがたの同族の領土内を通ろうとしている。彼らはあなたがたを恐れるであろう。ただし、あなたがたは十分に注意せよ。(3~4)
主は再び彼らをカナンに導かれる。その道筋を指示されて戦うべき相手と、戦うべきでない相手を教えられる。彼らが恐れるのは主を知っている同族だからである。
肉の性質は自分を恐れる相手には支配的になり、脅してくる相手には従順になるものであるが、主は真逆を教えられる。注意を促されたのは、その肉の性質に対してである。
彼らに戦いを仕掛けてはならない。わたしは彼らの地を、足の裏で踏むほどさえも、あなたがたには与えない。わたしはエサウにセイルの山を、彼の所有地として与えたからである。(5)
主が守られる者からは何一つ奪うことは出来ない。すべては人の力や知恵には拠らず、神のご計画に拠ることである。人は自分のものを守ろうと作戦を立て、知恵を巡らせるが、神が与えてくださったものは神が守っていてくださる。
食物は彼らから金で買って食べ、水も彼らから金で買って飲まなければならない。、あなたの神、主はあなたのしたすべてのことを祝福し、この広大な荒野でのあなたの旅を見守っていたのだ。この四十年の間、あなたの神、主はあなたとともにいて、あなたには何一つ欠けたものがなかった。」(6~7)
食べ物を買う金も、飲み水を買う金も、主の備えによってたまわったものである。失敗によって彷徨う間にも、主はすべての民の必要を備えくださっていた。
今も主に拠り頼む者に、「明日のことを思い煩うな」と、命の必要を守っていてくださる。神は永遠に変わることのないお方である。罰せられている間も主のまなざしが、イスラエルの民を離れることはなかったのだから。
ペテロが弱さによってイエスを「知らない」と言ったときも、主は彼の信仰を予めの祈りによって守ってくださり、ペテロをご覧になる眼差しは慈しみに溢れていた。
主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた主のことばを思い出した。
彼は、外に出て、激しく泣いた。(ルカ22:61~62)
ペテロは号泣して弱さゆえの罪による責めを洗い流し、復活のイエスを待つことが出来た。主の祈りに信頼して慈しみを受け取ったからである。
自分を知ると人は涙を流す。しかし、主の眼差しにある愛を味わうのはその時である。
神は愛であり慈しみ深くあられる。キリスト者は失敗をする者であって、すべてをご存じの主が予めの祈りとともに、弱さの中に完全に働いてくださるのである。
失敗をした時は、主に信頼して立ち直らなければならない。しっかり立ち上がって主に聴いたみことばに前進しなければならない。ユダのように、主の慈しみを思い出せない者であってはならない。
「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31~32)