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石ころ

殺されるまで教え続けて(マルコ6章から)

 イエス様の郷里の人々は、イエス様のわざやことばの力を見聞きしても、「この人は大工ではありませんか」と、「わざを見て信じる」という救いのチャンスを失った。彼らの不信仰に驚かれたイエス様は去って行かれた。不信仰は私たちの日常の身近なところにあって、ごく自然に流れていく。でも、信仰は選び取ることが必要。「もう知っている。」なんて言わないで、みことばに隠されていることがらを発見しつつ、日々、みことばに瑞々しく感動するような新しい出会いをしたいと思う。

 「ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保護を加えていたからである。また、ヘロデはヨハネの教えを聞くとき、非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた。」
ヘロデ王は耳の痛いことばであったけれど、喜んで聞いていたのである。群衆もイエス様のことばを喜んで聞いていた。私たちとどう違うのだろう。先日のメッセージで「聞くだけなら群衆です。あなたは弟子ですか、群衆ですか。」と聞かれたけれど・・・。

 ヘロデ王は愚かに誓って体面を保つために、
「ヨハネの首を求めた少女の願いを退けることを好まなかった。」
とある。そんなことのためにでも、それまで喜んで聞いていた救いのことばを捨てることができることが恐ろしい。それは本当にヘロデ王だけなのだろうか。少なくとも失敗に気づいたときには、恥を恐れずに即座に主に向きを変えること。私たちは何時でも罠から逃げることが出来る。私一人ではなく多くのいのちがかかっていることだから。

 バプテスマのヨハネは、殺されるまでヘロデ王に教えを語り続けた。それが彼の結んだ実。私たちにはその価値は分からないけれど、イエス様も十字架で殺されるまで教え続けられた。

「この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」(マタイ11:10~11)

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