石ころ

ケハテ族の分 ②(民数記7章)

 

 

主はモーセに言われた。「族長たちは一日に一人ずつの割合で、祭壇奉献のために彼らのささげ物を献げなければならない。」
最初の日にささげ物を献げたのは、ユダ部族のアミナダブの子ナフションであった。
そのささげ物は、聖所のシェケルで重さ百三十シェケルの銀の皿一枚、七十シェケルの銀の鉢一つ。この二つには穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉がいっぱいに入れてあった。(11~13)

 

族長たちは主への捧げものを持って来た。十二部族はそれぞれに数にも勢力にも違いあるが、捧げた物は同じであった。
私たちが主に捧げるものも、たまわったタラントは違っても、感謝することにおいては同じであり、主の評価も、タラントの差にはよらず同じである。

 

それはすべて、主からたまわった物の中から捧げるからであり、人はみな無力に裸で生まれた者であり、何も持っていない。
豊かな環境に置かれたなら、それは主の恵みであり、貧しい中ででも信仰を守り、捧げものを備えてくださるのは、何にも勝る恵みである。

 

それゆえに、多くたまわった者がほめられるわけでもなく、多く捧げることは当然である。此処に罠となる思い違いが生じるであろう。上辺の謙遜で、サタンを誤魔化すことは出来ない。
祈りに拠って、多く与えられた者の謙遜を守ってくださるのは主の憐みである。

 

たまわったタラントを用いる時に、主はその働きをほめてくださる。もし、評価を恐れて土に埋め、何も受けない者のように、世に埋もれて生きる時たまものはすべて取り去られる。

持っていても使わないなら、取り去られたことにさえ気づかず、痛くも痒くもないだろう。ただ、みことばによって育てられる関係も生じない。

 

たまものは、失敗しようと成功しようと、用いるほどにその経験によって、主を知るようになる。その原動力が「主は良い方」という信頼から出ており、主が喜ばれるのはこのことである。
そうして、いよいよ渇いてみことばに聴くようになると、さらにタラント増し加えてくださるのは、与えられれば用いるからである。

 

私たちが切望するのは、あなたがた一人ひとりが同じ熱心さを示して、最後まで私たちの希望について十分な確信を持ち続け、
その結果、怠け者とならずに、信仰と忍耐によって約束のものを受け継ぐ人たちに倣う者となることです。(へブル6:11~12)

 

ケハテ族は自分たちの肩で、主を経験しつつ幕屋を運ぶ。近しく主を覚えることほどの光栄が他にあろうか。

みことばを語ることはイエスを運ぶことである。キリスト者のうちに主は居られる。何の力も無い者が信仰によって生きる時、絶え間なく主を経験しているのである。

 

今、生きている者には、あらゆるツールを通してみことばが開かれて、何時でも見聞きすることが出来る終わりの時代である。
日本では主を知ることを隔てるものは何も無い。誰でも、聖霊の導きを求めつつ、みことばを生きることが出来る、残り少ない恵みの日である。やがて・・聴けなくなるみことばの飢饉が来る。


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