石ころ

ケハテ族の分①(民数記7章)

 

モーセは、契約の箱を治める幕屋を設営して聖別を終えた時に、イスラエルの十二人の族長は主にささげ物を持って来た。

 

それは覆いのある台車六台と雄牛十二頭で、族長二人につき車一台、一人につき牛一頭であった。彼らはこれを幕屋の前に引いて来た。
すると主はモーセに告げられた。
「会見の天幕の奉仕に使うために彼らからこれらを受け取り、レビ人にそれぞれの奉仕に応じて渡せ。」(3~5)

 

ケハテ族には台車は不要ゆえに与えられなかった。彼らは車を使わず、肩に担いで運ぶからである。それは主に近しい聖なる働きである。

レビ族には土地が与えられないのは彼らには不要だったからである。すべて主のものによって養われるからである。

 

世で分け与えられているものが、自分には与えられない時に惨めに感じる必要はない。主によって養われるからである。これ以上に安心なことはないのだ。自分で遣り繰りしなくても、愛の神がその子を養ってくださるのだから。

 

放蕩息子の兄は、父の財産を使い果たして戻って来た弟を妬んだとき、父は「私のものはお前のものではないか」と言った。父を持っていればすべてを持っていたのである。
放蕩で財産を使い果たした弟は、父の豊かさを知っていたが、共に居たはずの兄は、父の気前の良い豊かな愛に気づいていなかったのである。
人にとって神の愛を知らないほどの貧しさはない。

 

主に仕える者が他人を妬まないためには、必要は主に在ってすべて満たされることを、経験しなければならない。それは知識として知っていることではなく、信頼する時に主が経験させてくださるものである。
放蕩息子は何一つ良いことをしてはいないが、父を信頼してその愛を経験し、それが父の喜びとなったのである。

 

ケハテ族の経験は肩の痛みやその重さにもあろう。負うことは時に痛みや苦しみを伴うが、それは主を近しく実感することでもある。
車で運んでは知り得ないことがあるのだ。それは主に近しくある喜びである。

 

ケハテ族は主に選ばれた者であるが、キリスト者は神の宮であり、神の子とされた者である。キリストの御わざによってたまわっている恵みが、どれほどのものであるかを、私たちはほとんど理解していないだろう。御国に行った時すべてを知って驚きひれ伏すのだろう。

 

みことばを運ぶキリスト者も、主の養いによって生きている。みことばを人に流し伝える前に、解かれたことばを真っ先に味わって養われ、「このみことばが私に成りますように」と祈るからである。番茶でいえば出花を頂くのだから・・最高に美味しいに決まっている。

 

私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:16)


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