ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。(マタイ19:30)
すべてを捨ててイエス様に付いてきたお弟子に、御国の祝福が約束された。でも、その直後のお言葉が気になった。
誰よりの先に、イエス様を知った彼らに対して話されたのだから、このことは「あなた方は後になる・・」と言われたことになる。
確かに、イエス様の十字架の隣に居た強盗の方が先であった。なぜ?と主に尋ねつつ読み進めいたら、20章のぶどう園のたとえに答えを見つけた。
1日1デナリの約束で雇われた労務者。朝から働いても、昼から働いても、夕方少し働いただけでも賃金は同じ1デナリ。この1デナリはイエス様の十字架の救いを現していると思うから、これ以上に何も付け加えるものはなく十分なのだけれど・・。
此処で大切に思ったこと、最も感謝するのは誰かということであり、恵みに気付いた者から順番に救われるのだということ・・。
子供のように恵みを受けて入る御国。
御国に入ることが赦されるのはただ神の恵みに拠るのだから、金持ちなど人の力は邪魔でしかない。長い間働いた報酬と勘違いしてしまう立場は、恵みに気付くには不利なのである。
だから人の力が完全に消耗し、「人にはできないことが神にはできる」ことにのみより頼む者とされる時間が必要であり、一方的な恵みと知って感謝に溢れて入る所が御国なのだろう・・。
「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」(マタイ20:16)
ぶどう園のたとえの終わりにも繰り返し忠告されている。
イエス様はこれからご自身に起こることを話された。十字架への道を進まれるご自身のことを・・。
しかし、弟子たちが考えた事は御国での地位のことだった。彼らは御国が当然与えられるべき報酬だと勘違いをしたように思う・・。。
そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。
また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。(マタイ19:28~29)
しかし、この約束も報酬ではなく何処までも恵みによることなのだ。
20章の最期の盲人の癒しは、ただ彼らがイエス様に「憐れんでください。ダビデの子よ」と救いを求めただけである。
盲人は目が開かれてイエス様について行く事が赦された。恵み以外には考えられない彼らにはとても分かり易いのである。
イエス様について行く・・連れて行って頂くことが救いの完成である。弟子に求められているのは、終始主の恵みと憐れみによって付いて行くことが赦されていることへの感謝である。
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