石ころ

生きている者の神 (マタイ22章から)




 エルサレムでのイエス様にパリサイ人が最も腹を立てたことは、少々乱暴な宮聖めではなく、子供達が「ホサナ、ホサナ」とイエス様をほめたたえるのをそのままにされたことであった。
彼らは、その言葉は自分たちが受けるべきものであると思っていたから・・。

すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』
そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。(マタイ21:38~39)


 ぶどう園を横取りした農夫のたとえ(マタイ21:33~39)では、イエス様は、主人の財産とある神の権威を、農夫であるパリサイ人が自分のものにしようとしていると話された。

「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」(マタイ22:21)
だから、このように忠告された。
彼ら自身がそのことを明確に意識していたかどうかはわからないけれど、やっていることは正にそうであった。


王子の結婚披露宴では、招待されていたお客であるパリサイ人たちは披露宴そのものに無関心であった。
そこに用意されていたのは、ほふられた雄牛によるあがないであったけれど、彼らは言い伝えを完全に守っているという自負によって、罪の意識が無いことをイエス様は指摘されたのだけれど・・、

彼らは、物の売り買いのような、畑仕事のような俗なものではなく、清い宗教者だと思っていただろうけれど、その中身は彼らの軽蔑していた庶民の生活そのものであった。なぜなら、神抜きの宗教的なものとは商売そのものだから・・。

「宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。」(マタイ22:8)
救いのための宴会に「相応しくない人」とは、悪い人でもなく通りすがりの人でもない。神が愛によって準備してくださった罪のあがないを必要としない人である。

「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(マタイ22:14)
神様のほうで罪を赦すためのあがないを準備してくださるから、悪人も善人も救われるのだけれど、選ばれるためには「自分の罪を知って、十字架の救いを必要と認める」ことは絶対の条件である。


 サドカイ人の仕掛けた荒唐無稽な例え話に対して、イエス様はとても重要なことを教えてくださっていた。

「すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」
しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。
復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」(マタイ22:28~30)


イエス様のことばは注意深く聴かないと、人は現実の経験に、まだ見ていないことをも押し込めて思い違いをしてしまうのだ。
先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。(イザヤ43:18)
まだ見ていないことを過去の経験に重ねてしまったり、過ぎたことを思い煩う・・。それでは今日語られるみことばを悟ることはできない。

まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」(Ⅰコリント2:9)


「『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」(マタイ22:32)

 主は将来を準備して、ゴールに向けて共に生きてくださる方である。聖書は硬直したマニュアルではなく、今も生きて働くいのちのことば。
だから一生読み続けて倦むことなく、日々の必要を新鮮に満たすことができるのであり、耳の後ろからそっとささやく聖霊の導く声を、今日も待ち望むことができるのだ。

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