石ころ

血はいのち(レビ記17章)

 

 主はモーセにこう告げられた。

イスラエルの家の者のだれかが、牛か子羊かやぎを宿営の中で屠るか、あるいは宿営の外で屠るかして、
主の幕屋の前で主へのささげ物として献げようと、会見の天幕の入り口に持って来ることがなかったなら、血の責任はその人に帰せられる。彼は血を流した。その人は自分の民の間から断ち切られる。(1.3~4)

 

すべてのいのちは創造主なる神のものである。捧げものとなる動物を、神は人と交わるために備えてくださった。それは罪をあがなって神との関係を守り、神は人との交わりを喜ばれ、人は神を喜びほめたたえるためである。

 

いのちを好き勝手に扱う時、それは神の目的を果さず、いのちを奪った事実だけが残るのである。その時その人は切り離される。みことばに聞き従わない関係は、すでに壊れているのだ。

 

 捧げもは神のことばに従順することから始まる。人の第一の捧げものは、造り主なる神を神とすることである。
人の都合や好き勝手な捧げものは、偶像に捧げる行為であり、みことばに人の賢さや正しさを付け加えることも、状況によってことばを差し引く不信仰も、神はその汚れを切り離される。

 

人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。(コロサイ2:23)

 

みことばに従って主の幕屋に持って来ず、聞き従わずに屠る行為は、それがどれほどの犠牲が払われていても、みことばに逆うものであり神は忌み嫌われる。その行為は神に敵対して、備えられた交わりが拒否されてあり、その人を断ち切られるのは、その汚れからご自分の民を守るためである。

 

実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。
それゆえ、わたしはイスラエルの子らに言う。あなたがたはだれも血を食べてはならない。あなたがたの間に寄留している者も血を食べてはならない。(11~12)

 

生き物のいのちは創造主のものであり、神の造られたものを殺して食べることは、創造主の許しの下にあるのは当然である。すべて、持ち主の許可を得て自由になるのである。まして神の作品である生き物には、主への服従と感謝という作法がある。

 

「だれでも、死んだ動物や野獣にかみ裂かれたものを食べるなら、この国に生まれた者であれ寄留者であれ、自分の衣服を洗い、水を浴びなければならない。その人は夕方まで汚れる。それから彼はきよくなる。
もし自分の衣服を洗わず、身に水を浴びないなら、その人は自分の咎を負う。」(15~16)

 

野獣を支配して養う権威にある人間が、その獲物によって養われることには、神からたまわった権威が貶められている。此処には医学的な守りの意味も含まれているが、神の定められたことが逆さまになることは汚れである。

 

 キリストの血は人のすべての汚れをきよめて、信じる者を神の子とされた。今は、キリストの故にすべての食べ物はきよく、これらモーセの律法から解放されている。

 

それは、神が創造された命を軽んじることではなく、最も高価な神のひとり子イエス・キリストの血が支払われ、完全にあがなわれているからである。
キリストを信じる者はアダムが園にあった日のように、解放された霊、魂、体のすべてを養われて生きるようになる。

 

イスラエルの子らや彼らの間に寄留している者のだれでも、食べることができる獣や鳥を狩りで捕らえた人は、その血を注ぎ出し、土でおおう。(13)

 

 戦場にあるいのちは、これらの動物の命よりも軽く扱われ、敵であろうと味方であろうと人の命が単なる数字とされ、そこでは一人ひとりの血が葬りの土で覆われることさえない。

 

すべてのキリストを信じる者が、神の備えてくださった祝福の地に住む日は、人の努力や手段には拠らず、神のご計画によって千年王国に実現する。

ご真実な神がいのちをあがなって、すべての涙を拭い去り、平和の歓喜を味合わせてくださる日が来るのだ。待ち望め主を!


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