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石ころ

今日は火曜日(嵐は去って)

 火曜日の方とイエスさまを礼拝する時、彼女の笑顔にいつも励まされる。イエスさまのご真実なことを繰り返し話してくださった。
「私はいろんな神さんを今まで信じてきたけど、こんな方は初めて。見たことも聞いたこともないよ。すべての心配事が、ガラッとひっくり返ったように片づいて、夕べは本当に感謝で一杯になってお祈りしたよ。」

 次々と問題が起こって、大きな悩みを三つも抱えて居られた。でも、それらは彼女には、イエスさまのご真実を経験するための材料に過ぎなかった。主は、主に来る者の苦しみを祝福に変えて下さるお方であることを、彼女を通して私にも見せて下さった。
彼女はその信仰のタラントを用いて、主に留まり続け、主に期待して、どんな時も決して主に絶望しなかった。


 苦しみや混乱の時が過ぎ去って静かな時間が続くときは、みことばからイエスさまを知って成長するとき。
問題が取り去られたのに、それをまだ心配して思い煩うことがあると話された。誰でもそうだけれど、主の平安の中に安息することはそんなに簡単ではない。
その平安も祈りつつ、これから、ゆっくりともっと主を知らせて頂こうと・・。


 今日はカナの婚礼の箇所を二人で読んだ。イエスさまがマリヤに言われた、
「あなたはわたしと何の関係があるでしょう。女の方」という言葉に、
「やはり、イエスさまは神様だから、お母さんにもそんなもんなのかなぁ・・」と言われたので、

「いいえ。むしろとても普通の仲良しの親子だったのだと思うよ。だからこそ、この時イエスさまは、けじめを付けるために厳しい言い方をされたのだと思う。『これからのことは親子関係にはよらず、神の子としての仕事なのですよ。』ってことだと思うよ。」

「なるほどね。マリヤは偉いね、イエスさまを産んで、ずっと大きく育ててきても、その子が神であることをちゃんと忘れなかったんだから。それはけっこう難しいことだと思うから・・。」
「本当にね、彼女は信仰による緊張感を持ちながら、普通に生活をして、イエスさまを普通の子供のように育てて来たのだと思うよ。」

 キリスト者としての信仰生活も、ほとんどの時間を一社会人としてこの世に普通に生きて居る。ただ、キリストにある者として、何ものにも変えられない大事なものを抱えていて、時には、そのために一人ででも世と戦うことがある。

それは主に賜った十字架。イエスさまが命を捨てて勝ち取ってくださったものを、私も命を賭けて守りたい。でも、そのことを実現して下さるのもイエスさまのわざ。
いろいろな感動の中で、深い感謝のお祈りとささやかな献金を主に捧げて、香ばしいお茶を頂いてお別れをした。


「私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました。私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。」(ヨナ2:2)

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