みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、
時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。(エペソ1:9~10)
イエスさまはベツレヘムの家畜小屋に来られ、ナザレの大工の家で成長された。こうして神のキリストは隠され、王の王として当然の宮殿には居られなかった。
携挙も再臨も千年王国も、聖書の中の見つけにくい言葉のベールで覆われているように思える。
たとえ言葉を見つけても、常識の枠に嵌められた人には奇想天外に思えて、それは幼子の幼稚な想像のようだからである。
しかし、神のなさることが人の思いの域にあるなら、神は人と変わらないということであって、そこには神への信仰も信頼も入る余地は無い。
聖書は、たとえ人の聞き慣れた言葉であっても、聖霊の導きがなくてはみこころは解けない。人間的に切り取って用いられる聖書の言葉は山ほどあるけれど、創造主とは何の関係も無く、人の便利な言葉となってしまっている。
「祈り」という最も大切な言葉さえ、ただの挨拶語となり果てている。
バベルの塔以来、人の言葉は不完全なものになってしまった。しかし、それが神のみこころでもあるのだと知った。
人の何かではなく、共に居てくださる主によって生きることがみこころであり、聖書のことばはそのような謙遜によって、一つひとつ御名をほめたたえつつ聴くことばである。
その時、幼子でも無学な老人でも主に聴くことができるのは、求める者に対するいのちのための主の備えなのだ。
携挙の時は誰にも知らされていない。だから明日かもしれない。
その時には、悩みの体をサラリと地に捨てて、神が準備してくださった式服である、霊のからだを着せられ、空中で迎えてくださる花婿イエスさまを仰ぎ見る。
でも、決して始めて見るお方ではない。良く知っているから迎えてくださるのである。今はその日を待っている。自分の成すべき事を急ぎながら、その栄光の勝利の日を・・。成すべき事を急ぐのは、共に携挙に与るようにと願う人のためである。
携挙の後の世の混乱は聖書に記されている。それはあまりに恐ろしい日々だから、なんとかして今恵みの日に福音を伝え、「一緒にイエスさまに行きましょう」と切に、切に願っているからである。
恵みの時は限られている。伝えることの難しい言葉に閉じ込められている中で、聖霊の臨在を祈りつつ急いでいる。
神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(Ⅱコリント6:2)