石ころ

使徒の働き⑦ (5章)

 

使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行われた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。
ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。
そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。(12~14)

 

キリストのからだなる教会には、聖霊が充満しておられ、弟子たちの霊、魂、体のための必要が豊かに満たされていた。


うちなるキリストの御わざを現わし、みことばと行いによって人々を捕らえ、ペテロはイエスの約束通りに、人間を獲る漁師の働きをした。

 

人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。
また、エルサレムの付近の町々から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。(15~16)

 

其処では使徒たちは皆、神が何をなさろうとしているのか、どのように用いようとしておられるのか分かっていたから、自分にたまわった力によって、みこころに邁進することができたのだ。

 

この驚くような力がペテロから現れ出ても、誰もペテロを崇めることも、ねたむこともなく、共にその日なすべきことを行い、救われた人々を迎え入れていった。


パウロの癒しのわざにも、それを正しく教会の働きと、一致して受け入れたのは、教会にある聖霊の充満によって、皆がキリストの祝福の中に安息していたからである。

 

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ1:23)

 

彼らはキリストの霊によって生きる経験の中で、みこころの確信を得て、従順の価値を学んでいた。
語る言葉の祝福は、それが確かに神から出ている確信となり、影でさえも病人を癒やす力は、人々に対する神の憐みと祝福を現わしていたのだ。

 

そこで、大祭司とその仲間たち全部、すなわちサドカイ派の者はみな、ねたみに燃えて立ち上がり、使徒たちを捕らえ、留置場に入れた。(17~18)

ところが、夜、主の使いが牢の戸を開き、彼らを連れ出し、
「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい」と言った。(20)

 

神の福音を閉じ込める牢は作れない。神が遣わされた使徒を閉じ込めても、脅して黙らせることは出来ず、辱めて終わらせることも出来ない。彼らは、みこころを行う自由を受けているからである。死さえもみこころの完成となり勝利となるのだ。

 

「獄舎は完全にしまっており、番人たちが戸口に立っていましたが、あけてみると、中にはだれもおりませんでした。」(23)

 

使徒たちが此処で経験していることは、人を愛する神の熱心である。キリストがどれほど人々を滅びから救いたい、祝福したいと思っておられるか・・ということである。
それゆえ、心からあふれ出る神の愛を語り続けずにはおられなかったのだ。

 

そこへ、ある人がやって来て、「大変です。あなたがたが牢に入れた人たちが、宮の中に立って、人々を教えています」と告げた。
そこで、宮の守衛長は役人たちといっしょに出て行き、使徒たちを連れて来た。しかし、手荒なことはしなかった。人々に石で打ち殺されるのを恐れたからである。(25~26)

 

牢に捕らえられていた者が、朝には宮でキリストを伝えていたことに、神のユーモアさえ感じる。
使徒たちが恐れることなくそれができるのは、うちなるキリストと共に働いているからである。


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