石ころ

主の愛しておられる弟子 (ヨハネ13章)




まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」(ヨハネ13:20)


父なる神さまはイエスさまを宮殿ではなく、家畜小屋に遣わされた。王に遣わされたのではなく、人の嫌う病人や罪人に遣わされた。
そうして人の賢いことばではなく、愚かに聞こえることばを語られた。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(Ⅰコリント1:18)

イエスさまに遣わされる弟子も同じように、聖霊に拠らなければ受け入れられない。弟子を受け入れた者はイエスさまを受け入れ者とされ、イエスさまを受け入れた者は、父なる神さまを受け入れたと言われた。その人は御父と御子と聖霊を受け入れたのである。

イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」(ヨハネ13:21)
イエスさまの激動は、裏切られる愛の悲しみであり、十字架で流される血潮をもってしても、滅び行く弟子への叫びである。

弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた。(ヨハネ13:23)

ヨハネは「イエスが愛しておられた弟子」と名乗っている。イエスさまは「彼らを最後まで愛された」とあり、たしかに彼は愛された弟子である。
十字架に向かって進む緊張の中で、「イエスの胸のところで横になっていた。」(新改訳2017)とある。
横になるのは当時の食卓のスタイルではあるが、イエスさまの懐に安息する様子からも、彼がイエスさまの愛をしっかり受け取っていたことがわかる。

キリストの命懸けの愛を日々注がれていながら、味わうことが無いから感動もなく、満足も感謝も賛美も無いなら、それはあまりに申し訳ないことである。

その弟子は、イエスの右側で席に着いたまま、イエスに言った。「主よ。それはだれですか。」
イエスは答えられた。「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリオテ・シモンの子ユダにお与えになった。
彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼に入った。そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」(ヨハネ13:25~27)


ユダはイエスさまを離れて闇の中に出て行った。彼も自分の愛するものの側に行ったのだ。
キリスト者は嵐に向かって行くときも、主の御胸に身を保たせて「主の愛しておられる弟子」を味わって居る。
備えに安息して、耳元に聴いたお言葉のお手伝いのチャンスを待っている。その時、主はご自身の栄光を見せてくださるから・・。

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