今日はルカ20章のぶどう園の農夫のお話。私はこの例えはどうも苦手だった。こんな主人が実際にいるとは思えなくて、
「遣わした僕を何人もひどい目にあわせる小作人のところに、大切なひとり息子を行かせるなんて・・そしておめおめと殺されるとは・・」そう思えて、此処を読むと苛立つだけで理解できなかった。
今日その意味が解けて感謝だった。私が苛立ったところには、深い神様の愛が秘められていることを教わった。
「甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。」イザヤ5:1~2
イエス様は甘い良い実を結ぶのを待っていてくださったのに、酸いぶどうの実を結んでしまった。
ホセア10:1のみことばの真意「虚しいぶどうの木、それは自分自身のために実を結んだので、心が分かれていると責められている。」
新共同訳では「イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木。実もそれに等しい。実を結ぶにつれて、祭壇を増し/国が豊かになるにつれて、聖なる柱を飾り立てた。
10:2 彼らの偽る心は、今や罰せられる。主は彼らの祭壇を打ち砕き/聖なる柱を倒される。」となっていた。
イスラエルの結んだ実は神様のためではなく、自分自身のために結んだ実だった。
主人(神様)には、初めから小作人を見捨てる計画はなく、僕(預言者)を使わすたびに、一回毎に、本気で期待して居られた。それが繰り返されて、ひとり息子(イエス様)を遣わしてくださるほどの愛。
それが私には不自然に思えた。その神様の愛は私には及びもつかなくて理解ができなかった。私には神様の愛の深さが分からなかったのだと知った。
この例えをイエス様は民衆に話されたのだが、民衆は表面的にしか理解できなかった。そして、聞いていた律法学者や祭司長は怒った。彼らは理解したから怒って受け入れなかった。
イエス様の例え話は神様のみこころが語られ、良い地に落ちた種だけが良い実を結ぶ。
私は良い地だろうか・・本当に割り引いたり、付け足したり、自分に都合良く聞いたりしていないだろうか・・深い神の愛に本当に信頼しているだろうか・・
いや、今は
「教会というまことのぶどうの木で、父なる神様が収穫を管理されているのだから、一粒一粒個性的だけれど、粒ぞろいの良い実を実らせてくださいます」と告白して行こう。
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