ノアの箱舟について、聖書を読みながら話し合っているとき、息子の「すべての生き物と書いてあるけれど・・・、それはこの地方にいる物だけだろうね。」と、もらした言葉に私はカッとしてしまった。「でも、聖書にすべてと書いてあるからすべてでしょう。そうでないと洪水で絶滅しているよ。」「それって盲目的じゃないのか?物理的に無理だろう」と議論になってしまった。
「神様の大きさが人間にわかるわけないじゃない、無理矢理自分の小さな頭で神の業を限定して、理解しやすいように処理すべきじゃないよ。自分の頭に入りやすいように、聖書を縮めて、歪めて入れてもなんの意味もない。そんな読み方なら読まない方がましだよ。」なんて言ってしまった。
すべてと書いてあるからすべてなんだと思う。たとえ、小さな頭には理解を超えて、「どうやって?」という疑問が残っても、それは、それでいいけれど、造られたものにすぎない人間に造り主のすべてがわかるわけはないのだから、分からない部分はそのままにしても、真っ直ぐに読まないとみことばを曲げてしまう。
せっかく箱舟に入れられて神様の救いが家族に成就しても、箱舟の中で神様の約束をそのまま信じて安息する150日がなければ、外の大水の滅びの恐怖を、そのまま箱舟の中で体験することにもなるだろう。
せっかくイエス・キリストの十字架のあがないによって救われ、みことばの約束を頂いても、自分の小さな頭で肉的な判断をして、みことばをひとつ一つ否定していっては、私にとってみことばは何の力なく、十字架もその完全な救いの意味を失ってしまう。
彼とは言い合ったりもしたけれど、祈りの時「仕事のことでも、自分の考えで物事を決めつけてしまわないお導きをください。」と祈っていたことに主に心から感謝をした。
「神はノアと、箱舟の中にいたすべての生き物と、すべての家畜とを心にとめられた。神が風を地の上に吹かせられたので、水は退いた。」(創世記8:1)
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