16:22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
イエスさまのお話は弟子たちにはとんでもない言葉でした。これから奇跡の力を用いて人々に救いを説き、ますます有名になり、華々しい働きをされ、王になる方だと思っていたからです。
人間なら誰でもそう思うでしょう。此処まで来て「死ぬ」それも「殺される」そんなことはあり得ないことでした。
誰であれ人の思いの中では、「死ぬ」ということは、すべての終わりであり、完全な敗北でしかなかったからです。
「ペテロは、イエスを引き寄せて・・」とあります。人は神様を自分の身の丈に引き下げて、自分の考えや計画や思いを命じる失敗をします。間違ってはいけない、人は神様に世から引き上げられて神様の計画を行うべき者なのです。このことはとても大切なことです。
16:23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
神様の計画を妨げるものはサタンです。人がサタンを手伝って、神様の計画を邪魔をしてしまうことがあります。
でも、ペテロに悪気があったわけではありません。イエスさまを大切に思うから自分の考えで良いと思うことを言っただけなのです。
ここでペテロは、自分の「良い計画」が、神様には汚れたものであるということを、イエスさまの叱責によって学びました。サタンからのものであったとは大きな衝撃だったでしょう。人にどうしてそのことを見分けることができるでしょう。
人にはわからないのです。そのことを知っているのは唯一イエス・キリストだけです。だから、イエスさまは助け主なる聖霊を私たちにおくってくださったのです。
その方は、私たちにみことばを解き明かし、大切なときに思い起こさせてくださり、神様のみこころに導いてくださいます。
聖書に親しみ、みことばを豊かに住まわせ、聖霊の助けによって用いてゆくときに、私たちも神様のご計画を、日々、一歩一歩と解き明かされ、みこころを生きてゆくことができるのです。
すべての宗教や、ヒューマニズムは人間が中心です。人が人のために立てた良い計画を神が手伝うべきだと考えています。それは人の目にはとても優れたものに見えます。「善悪知識の木の実」を食べ、アダムの血を引く人類には、すんなりと理解ができるものですが、不完全な人の考えから始まったことには、必ず矛盾に満ちた結果が待っています。
神様のご計画は、救い主が死ぬことによって人類が救われるという、私たちでは想像もできない逆説的なものでした。
このように、神様のみこころは人には及びも付かないものですから、まず謙遜に、すべてを委ねて導きを待つことがとても大切です。
でも、自分の計画や願いを全能の主に祈ることは自由だと私は思っています。聖書に「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」(マタイ21:22)と書かれています。
ただ、時や方法などすべてを主に信頼してお任せし、従順のうちに祈ります。イエスさまが私たちの祈りを精査していてくださるからこそ、なんでも恐れずに祈ることができるのです。
聖書の中で、イエスさまは信じる人にも信じない人にも、癒しや助けを求める人には、誰とでも親しく交わり、その願いを聞いてくださいました。そして、その人の必要を惜しむことなく与えてくださいました。イエスさまの周りにはいつもそのような願いを持った人々が取り巻いていました。そのことを赦しておられたのはイエスさまです。
子どもは父になんでも欲しいものを言います。どんな願いでも語ります。たとえ幼稚な夢であっても、子どもがそれを話すことは父にも楽しい時間です。
会話が豊かであることは父との関係の親密さでもあります。そのような関係の中で、子どもは願ったとおりのものが与えられないことがあっても、親密であればあるほど、父の選択に信頼することができるようになり、なぜそれが駄目であるのかを理解しようとするまでに成長して行きます。
そうして、もう細々とは語らなくても、父が選ぶものが自分にとって最適なものであるという過去の経験によって、与えられるままに受け、感謝の思いを深くしてゆくようになります。神様と私たちの関係もそのようだと私は思います。
「成長させたのは神です。」
16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
「自分の十字架を負ってイエスさまについて行く」ということは、信仰が大人に成長した姿です。強いられてではなく、脅されてでもなく、主から与えられた自分の役割を、人の知らないところで黙々と果たすことができるようになります。
誤解されて責められるようなことがあろうと、誰かに評価されてもされなくても、そんなことに一喜一憂する事もなく、自分に与えられた十字架を負って、主との交わりを喜んで平安のうちに、この世を主と共に生きてゆきます。
16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
16:27 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。
よく「・・いのち」と言います。恋人がいのちだったり、家族がいのちだったり、仕事がいのちだったり、人に認められることがいのちだったりします。
でも、私は「イエスさま。いのち」です。それはイエスさまが私のいのちとなってくださったからです。
「報いを受ける行い」とは、イエスさまのいのちを頂いて、感謝のうちに過ごすことです。その報いは、もう受けている永遠のいのちです。
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